[掲載]2008年6月15日
■隠された場面もほじくり出すように
まだ作家になる以前、デュッセルドルフにいたグラスは仲間とジャズバンドを結成し、レストランで週に3回演奏していた。そこへある日、客の一人がトランペットを吹き鳴らしつつ乱入してきて、スリリングなセッションが繰り広げられる。その「目をぐるぐる回してソロ」をとった黒人トランペッターこそ、かのサッチモ、ルイ・アームストロングその人なのであった――と、グラスは書くのであるが、これは本当にあったことなのだろうか?
いや、だから別に、嘘(うそ)だろうと、いいたいわけではない。けれども、人の記憶くらいあてにならないものはないのであって、それは人間が、過去を一つの完結した「物語」として描かざるをえないことに起因する。「物語」は自分に都合の悪い細部を消し去り、虚構を平気で導き入れる。というより、物語ることは虚構の力なしには可能ではないのだ。このことに深く自覚的な老練の作家グラスは、ここで「想起」という方法を採用する。それが表題の玉ねぎであり、記憶の奥に隠された場面や出来事を、玉ねぎの皮を一枚一枚むくようにして果てしなくほじくり出し、滑らかで傷のない「物語」になろうとする記憶に対置する。
そうしたからといって、自伝が虚構から逃れられるのではない。むしろ虚構性は高くなるとさえいえるだろう。しかし、のっぺりした記憶の「物語」に、「想起」が亀裂を入れるのは間違いなく、それら亀裂の産み出す陰影や歪(ゆが)みから、過去の手触りや存在感、あるいは時代の奥行きが立体的に伝わってくるのだ。歴史なるものの中核にある過去の事実性とは、元来そのようにしてしか示しえないものなのではないだろうか。
本書は17歳のグラスがナチの武装親衛隊員であったことを告白する内容で議論を呼んだ。この履歴についてグラスが長らく黙っていたことの倫理も問われた。だが少なくとも、本書が、何事かを隠蔽(いんぺい)するための饒舌(じょうぜつ)な「物語」でないことだけは信じることができるだろう。ところで、冒頭のサッチモの話、本当だと思いますか?
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依岡隆児訳/Gunter Grass 27年生まれ。ノーベル賞作家。『ブリキの太鼓』など。
著者:ギュンター グラス
出版社:集英社 価格:¥ 2,625
著者:ギュンター・グラス
出版社:集英社 価格:¥ 740