[掲載]2008年7月6日
■軍事力を用いる強靭な倫理を求める
戦争を「論ずる」こと。一貫した基準を事例にあてはめ、正しい戦争とそうでない戦争とを、論理によって弁別し、道徳上の評価を下すこと。それが、西欧の思想伝統における正戦論の仕事であった。
著者、マイケル・ウォルツァーは、かつてベトナム戦争の時代に、この議論を復権させ、みずからが属するアメリカ合衆国の行う戦争を批判した。この本でも、広島への原爆投下や、91年の湾岸戦争での空爆は、民間人を攻撃対象にした点で、不正だったと結論づけている。
しかし他方で、9・11テロ事件のあとのアフガニスタン空爆は、合衆国による正しい戦争だと語るのである。イラク戦争についても、戦争それ自体は、開戦理由に乏しい不正なものであるが、いったん始まった以上は、サダム・フセイン政権を倒すまで、戦闘を続けるべきだと説く。
およそ戦争は悪であると考える立場からすれば、「正しい戦争」がありうるという論法じたい、うけいれにくいだろう。とりわけ、アフガニスタンの例からすると、自国の戦争については基準をゆるめているのではないか。そういう疑いも生じてくる。
だが、その議論の根底にあるのは、テロリズムをめぐる、ウォルツァーの真剣な憂慮である。その暴力は、一般市民を殺害するだけでなく、恐怖によって人々を萎縮(いしゅく)させ、専制支配のもとにおしこめるか、あるいは他国の専制に対する攻撃をためらわせる。
こうした、人間性を根こそぎにする苛酷(かこく)な暴力に対しては、軍事力の行使も含む、国際的なとりくみを通じ、その抑止に努めなくてはいけない。アフガニスタンとイラクをめぐる主張も、そのように論理をたどれるだろう。
平和主義の理想論は、みずからの手を汚すことを避ける結果、暴力の横行を容認してしまう。そのように逃げることなく、人類の悲劇を防がねばならない、ぎりぎりの場面では、必要悪としての軍事力を用いる。罪の意識との葛藤(かっとう)に耐えながらそれを選択する強靱(きょうじん)な倫理を、この本は政治家と市民とに、きびしく求めるのである。
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駒村圭吾・鈴木正彦・松元雅和訳/Michael Walzer 政治哲学者。『寛容について』など。
著者:マイケル・ウォルツァー
出版社:風行社 価格:¥ 2,940
著者:マイケル ウォルツァー
出版社:みすず書房 価格:¥ 2,940
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