[掲載]2008年7月20日
■「集める」か「考える」か、知性が激突
なんでもかんでも集めて回る。物事の多様さが好きな科学者がいる。
なんでもかんでもひたすら考える。多様の裏に普遍をみようとする科学者もいる。
その違いは、理系と文系の区分けより大きいのかもしれない。
両派を代表する巨人がオレ流に生きた末に交差する。自然学者アレクサンダー・フォン・フンボルトと数学者カール・フリードリヒ・ガウス。18〜19世紀を生きたふたりのドイツ人をめぐる虚実を織り交ぜた小説だ。前段と後段に互いの接触が描かれる。
共通項は測量である。
フンボルトは南米を旅して山に登る。山頂は断念しながら「もっとも高い地点に到達した人間となった」と、とことん記録にこだわる。
ガウスはドイツで、長靴を泥だらけにしながら土地測量に携わるが、電気仕掛けで距離を測る時代を夢みる。「もうすぐこういった作業はすべて些事(さじ)となり果てるだろう」と、どこまでも冷めている。
2人がやり合う場面がおもしろい。磁場の測り方をめぐって「一万以上のデータを集めてきた」と豪語するフンボルトに「ただ足を引きずって歩けばよいというものではない。思考することも必要」とガウスはたしなめる。
世界像は見事に異なる。
フンボルトは「黒いエーテルのなかに浮かんでいる天体のひとつ」である地球の細部に執着する。「洞窟(どうくつ)のなか、海中、陸上、いたるところで植物が繁茂しています」
ガウスは「遠く離れた場所にある裂け目や火山、あるいは鉱山などに何が隠れていようが、それは偶然」で「世界がそのぶんだけ明快になるわけでもない」とみる。
波乱に富んだ2人の半生を絡めながら、科学に流派があることを鮮やかに浮かび上がらせた本だ。文学やアート同様、流派間の論争がもっとあってもよいのである。
訳者あとがきによると、この本は、ドイツでは05年以来、ベストセラーのリストに載りつづけているという。
日本なら信長と秀吉か。科学でそんな歴史小説が成り立つなんて、うらやましい。
◇
瀬川裕司訳/Daniel Kehlmann 75年生まれ。演劇一家に育った。小説家。
著者:ダニエル・ケールマン
出版社:三修社 価格:¥ 1,995
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