[掲載]2008年8月31日
■一人の決死の報告が世界を動かした
スペイン内戦の1937年4月、ゲルニカの町がフランコ反乱軍側のドイツ軍機に爆撃され、数千人の市民が犠牲になった。しかしフランコ側は、飛行機など一機も飛ばしていないと爆撃を否定する。
そのうそを暴いたのが、英タイムズ紙の特派員ジョージ・スティア(当時27)だった。
彼は機銃掃射に身をさらしながらゲルニカに入り、ドイツ機の種類と数をメモしつづける。ユンカース、ハインケル、メッサーシュミット……。そして決定的な証拠を手に入れる。ドイツの武器工場の刻印が押された不発焼夷(しょうい)弾だった。
彼の記事はタイムズに大きく掲載される。記事は詳細で、欧州各紙はきそって転載した。パリでそれを読んだピカソは、怒りをこめて「ゲルニカ」の大作に取りかかるのである。1人の戦争特派員の現場からの報告が、世界を動かした。
スティアの名はあまり知られていない。著者はBBCのプロデューサーだが、ゲルニカ特集の取材中に初めてその名を知って驚く。その驚きからこの本が生まれた。
ほとんど残っていない資料を丹念に拾いあつめ、早世した風雲児の人生と時代を生き生きと再現している。その仕事は貴重だ。
スティアを戦場に駆り立てたのは、ファシズムへの強い憤りだったと著者はいう。
非武装の市民を標的とした爆撃は第2次大戦期から急増する。第1次大戦では11%だったものが、第2次大戦では53%となり、90年代の戦争では90%に達したという。ゲルニカはまさにその実験場だった。何種類もの爆弾、焼夷弾が幼い子どもや母親の上に落とされ、性能が試された。その非人間性にスティアは激しく反発したのである。
そうした不正義を、スティアはすでにエチオピアで経験していた。35年のイタリアのエチオピア侵攻の取材で、イタリア軍がさまざまな毒ガス爆弾を住民に対して使っているのを目撃する。毒ガスは国際法違反だったが、イタリア軍は平然と使いつづけた。これも一種の実験だった。
彼のゲルニカ報道で苦境に立った枢軸側は、マスコミ対策の重要性を認識する。主要メディアを前線に同行させ、「敵が自らゲルニカを炎上させた」という操作情報を流すのである。英国政府は独伊とことを構えたくなかった。枢軸側同行記者の記事が大きくなり、スティアの記事はしぼんでいく。
英国のこうした「事なかれ」はチャーチルが登場するまで続く。その間、ドイツとイタリアはやりたい放題だった。
失意のスティアはタイムズを離れ、別の新聞の特派員としてソ連のフィンランド侵攻の取材にかかわった。しかし第2次大戦がはじまると、ファシズムとの戦争に直接参加することを選ぶ。情報将校としてエジプトやインド、ビルマで宣伝活動に従事。44年、ビルマで事故死する。35歳の若さだった。
時代は変わった。しかし戦争特派員は今もいる。イラク、アフガニスタン、スーダン……。理不尽な暴力に怒りをつのらせながら。
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TELEGRAM FROM GUERNICA、塩原通緒訳/Nicholas Rankin BBCワールドサービスのプロデューサー。同社のラジオ番組の制作で国連の二つの賞を受賞。著書に『Dead Man’s Chest』。
著者:ニコラス・ランキン
出版社:中央公論新社 価格:¥ 3,360