現在位置:
  1. asahi.com
  2. エンタメ
  3. BOOK
  4. 書評
  5. [評者]瀬名秀明
  6. 記事

われらが歌う時 [著]リチャード・パワーズ

[掲載]2008年10月12日

  • [評者]瀬名秀明(作家、東北大学機械系特任教授)

■濃密に積み重ねて「今」を生きる

 “今”そして“時”という漢字の重みをこれほど感じたのは初めてだ。この物語はわれらがこれから体験し、そしてこれまで体験してきた“今”への認識を変えてしまう。

 ユダヤ系物理学者と黒人音楽生が歴史的コンサートで出会い、恋に落ちる。3人の子が生まれ、長男は見事な声に恵まれて音楽家として時代を拓(ひら)き、次男はピアニストとして兄を助け、妹は人種問題のただ中へ飛び込んでゆく。彼らは少しずつ肌の色も違い、境界に生まれた故の偏見にさらされるが、親は3人を新しい未来として育てる。彼らの歌は父が探究し続けた宇宙の真理と共鳴し、還(かえ)ってゆく。

 半世紀以上にわたる時代を描いたこの長編は、しかし決して“大河”小説ではない。父が子らに諭すように、時間は流れたりせず、ただ“ある”からだ。ここに綴(つづ)られたすべての言葉が複数の“今”であり、だからこそ読み進めるわれらは常に今を追いながら、しかし次の瞬間にはもう別の今と対峙(たいじ)している。今は掴(つか)み取れないが今は私たちの中に積み重なる。この長編が濃密なのは、すべてが流れず、われらと共に“ある”からだ。

 随所に立ち現れる独自の身体描写が今とわれらを結びつける。たとえば音楽生ディーリアが父にユダヤ人の恋人がいると伝える時、「今日、父は石になる。父を石にしたのは彼女だ」。あるいは次男ジョゼフが病床の父を訪ねた時、横に佇(たたず)む恋人の一言を聞き、「私はテレサの肩を抱きしめて、この女の夢を優しく絞め殺した」。語り手であるジョゼフは音楽の才能には恵まれなかったが別の天賦の才を得ていたのではないか。他者の思いや状況を、彼は世間や時代の中で、われらの今として一瞬のうちに了解する。共感ではなく修辞で捉(とら)える。家族とは閉じた絆(きずな)ではない、常に世界の今と共にある。その中でわれらは世界を前進させてゆけるのだという信念、勇気。

 「過去に戻るためには、あなたは一度そこにいたことがなければならない」。よって読了後、多数の今を積み重ねたわれらは作家パワーズと共に時を生きる。科学と文学と世界の物語はここまで到達した。

    ◇

 THE TIME OF OUR SINGING、高吉一郎訳/Richard Powers 57年生まれ。『舞踏会へ向かう三人の農夫』など。

表紙画像

われらが歌う時 上

著者:リチャード・パワーズ

出版社:新潮社   価格:¥ 3,360

表紙画像

われらが歌う時 下

著者:リチャード・パワーズ

出版社:新潮社   価格:¥ 3,360

表紙画像

舞踏会へ向かう三人の農夫

著者:リチャード パワーズ

出版社:みすず書房   価格:¥ 3,570

検索フォーム
キーワード: