[掲載]2008年10月12日
■純粋に憧れ、偽善に転落する弱さ
ずいぶん昔のこと、小劇場演劇のチラシか紹介記事の惹句(じゃっく)を見て、いやあな気分になったことがある。「ここではない、どこかへ」。たしかそんな文句だった。世間に甘えたような気配が察せられ、癇(かん)にさわったのである。
ただ、この小説の主人公、彦名という男は、そう口にする理由が、いちおうある。何しろ「主」の命令で、太刀を大権現へ奉納に行く途中、別の世界へ入りこんでしまう。しかもそこは、目にするものみな薄汚れ、人の言葉も欺瞞(ぎまん)や追従ばかり。この「贋(にせ)の世界」に幻滅し、脱出を願うのも無理はない。
しかし、自分が「奇蹟(きせき)」を起こせることに彦名が気づくあたりから、物語はしだいに別の色彩を帯びてくる。指先から火を噴いたり、空中に浮かんだりできるようになり、それを「この世界の嘘(うそ)を糾(ただ)せ」という「主」の命令と、彦名はうけとるのである。
そして、彦名の語る「主」の姿も、恐ろしい罰を下す神に近づいてゆく。だがその信仰が、「贋の世界」の内で生きてゆく倫理をもたらすことにはならず、やがて自身の破滅を導いてしまう。
「主」から特別の使命を与えられているのだから、このくらいの得はしてもいい。彦名はそのように考えて、欲望を満たすことや、目前にある不正義の黙認を、正当化していった。
彦名が他人に加える復讐(ふくしゅう)と、その結果として「主」が彦名に下す刑罰は、むごたらしく恐ろしい。その残酷さが、「贋の世界」の内で、自分なりに正しさを求めていた彦名の言葉を、逆にくっきりと浮かびあがらせる。「無よ。虚無よ。僕の濁った瞳から僕のみてしまった一切を洗い流しておくれ。純粋な嘘。純粋な真実をみせておくれ」
純粋な正しさに憧(あこが)れながら、やがて自己欺瞞に陥り偽善へと転落する、人間のどうしようもない弱さ。主人公が不快な経験に見舞われつづける、負の遍歴小説の趣向を楽しんでいるうちに、いつのまにか切実な大問題へとひきこまれてしまう。読後に残った重量感は、本が分厚いせいだけでは、もちろんなかった。
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まちだ・こう 62年生まれ。作家。「きれぎれ」で芥川賞。著書に『告白』など。
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