柄谷行人さんに聞く「なぜ古典を読むのか」最終回

[文]近藤康太郎  [掲載]2012年03月18日

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イラスト・金子真理

表紙画像 著者:カール・マルクス、中山 元  出版社:日経BP社

■本に「参加」しないと見えない 現状を変える可能性をつかむ

 ――1年前に始まったこの連載ですが、「3・11以降、のんきに古典などを読んでいる場合か」という自省は、常にありました。
 「今や読むに値する本など何もないとまで言う人もいました。僕は3・11後、ソクラテス以前のギリシャ哲学に没頭した。それらの古典に、一番現実感があり、逆にほかのことはまったくそぐわない感じがしたのです」
 「たとえばターレスらの自然哲学は、自然を科学的に見るというだけではなく、それまでの擬人化した神々を否定した考えだった。神の否定じゃありませんよ。自然そのものを神として見た。それは科学であり、同時に宗教でも哲学でもあった。そうした総合的な、人間生活の規範を考える預言者たちが、大まかに言って同時期に出てくるんです。ギリシャのターレスやソクラテス、ユダヤ教の第二イザヤ、ブッダ、老子に孔子」
 ――なぜ同時期にそうした思想家が輩出したのでしょう?
 「オリエントで鉄器が発明され、それが中国へ移動した。鉄器により、局地戦ではなく大戦争が可能になる。国全体が消え、自らの実存を揺さぶられる事態が、世界史上初めて起きたのでしょう」

 ――何か現代に通じますね。
 「預言者は大抵同じことを言うのです。人間は傲慢(ごうまん)だ、神の言葉を聞け、この国は滅びる。しかし多くの民に相手にされず、メディアにも載らない。原発の危険性を訴える声は多くあった。でも東日本大震災が起きるまで、だれも気づこうとしなかった」
 「古典はある意味で預言書なんです。読み手が真意をくみ取ろうと努力しなければ、能動的に読み込まなければ分からない部分を必ず含む。(連載でとりあげた)マルクス『資本論』は、資本主義社会とはどういうものかを解明しようとした本です。景気循環と恐慌は避けることができないという仕組みを明らかにした。だから今、読み返さなければならない」
 ――ラブレーやパスカルみたいな、「これが文学? 哲学?」という古典もとりあげました。
 「ヘロドトスを歴史の本だと思って読むと、とても変に感じる。人類学や神話学や医学のごった煮。でも、経済思想を含まない哲学、政治を扱わない文学がありますか? まあ、あるのかもしれないが、僕には用がないな」
 「見えで古典を読んでいい。知ったかぶりも知ってるうち。無知よりはましだ。教養主義は実践が伴わないからだめですが、それを否定するためにも、教養主義的にどんどん古典を読まないと」

 ――それにしても分かりにくい本が多かった。古典とは、人にこんな努力を強いるものですか。
 「古典の思想は、ある意味で現実から遊離しています。だって“古い”んだから。しかし、現実から遊離した思想を否定するなら、それは現状肯定に堕する。読み手も現状の枠組みから飛び出て考える、能動的に本に参加しないと見えてこないことがある」
 「勉強すれば分かるようにはなりますよ。でも、〈分かる〉ということ自体は重要じゃない。テクストには〈分かる〉ことからはみ出す、微細だが、どうしても片づけられない曖昧(あいまい)さが残る。古典は、その可能性の中心において読むほかはないでしょう」

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