文理悠々

新緑に芭蕉あり、「奥の細道」考

2012年05月11日

あふれる新緑=尾関章撮影

 晴れていようが、雨に打たれようが、この季節は散歩に出たくなる。それは、目に飛び込む木々の緑のみずみずしさのせいかもしれない。ケヤキやムクノキ、コナラ、クヌギのような落葉広葉樹はとくにそうだ。透明感のある葉の重なりが日々、枝と枝の間を埋めてゆく。

 散歩というには大事業に過ぎるけれど、松尾芭蕉が東北と北陸を巡る旅に出たのも、いまの暦でいえば1689(元禄2)年5月16日(旧暦3月27日)だった。新幹線もない、クルマも高速道もない、そんな時代であれば、旅に頃合いの季節は自ずと決まってくる。まして、風景をめでる、という使命感を抱いての長旅である。この時季をおいて旅立ちのチョイスはなかったのかもしれない。

 で、今週の1冊は『芭蕉 おくのほそ道』(萩原恭男校注、岩波文庫)。「五月雨の降のこしてや光堂」「閑さや岩にしみ入(いる)せみの声」(原文で「せみ」は漢字)などの名句には馴染んできたが、紀行文まできちんとは読まなかった。若いころは、現代文でないことが障壁だったのだろう。訓練を積んだわけではないが、この歳になると楽に読めるから不思議だ。〈この本はルビが多用されているので、不要と思われるルビ引用は省く〉

 この本をとりあげた理由の一つに、去年来、僕の心のなかで東北地方への関心が増した――より正しく言えば、それまでの関心の薄さを悔いた――ということがある。先日、3月9日付の当ブログで紹介した『東北学/忘れられた東北』(赤坂憲雄著、講談社学術文庫)は、芭蕉の東北紀行に厳しい目を向け、都びとの視線で書かれている、と批判していた。そこのところを見極めてみたい、という思いもあった。

 もう一つは、私事だが、去年から句会というものに出るようになったことがある。芭蕉といえば、なんと言っても俳聖である。名句の数々が、どういうシチュエーションで生まれたかを、ちょっと知りたかったのだ。

 さて、この紀行の行程を大まかになぞってみよう。今の地名で言えば、東京から草加、春日部を経て日光に向かい、那須に立ち寄った後、白河から東北に入る。福島、岩沼、仙台と進んだ後、塩竈、松島、石巻と海沿いをたどって、山側に戻り、平泉に至る。山越えをして山形県内をまわり、秋田県の象潟まで足を延ばし、折り返して新潟、富山、石川、福井各県を通って、岐阜県大垣で区切りをつけている。

 この文庫本には、同行した門弟の曽良の旅日記も収められている。これと照らし合わせながら本文を読むと、名句が詠まれた背景を知ることができる。たとえば、平泉を歩いたのは新暦6月29日。前日には、一関までの道中で強い雨に降られたというから、「五月雨の降のこしてや」なのだとわかる。山形県に入って立石寺でせみの合唱を聞いたのは新暦7月13日。旅人の前には、すでに真夏の風景があった。

 この紀行で、まず驚かされるのは、当時としては老境に入ったと言ってもよい数え46歳の俳人が、真夏をはさんで半年近くを費やした旅の実態は、かなりワイルドなものだった、ということである。

 平泉を出て鳴子温泉経由で山形県側へ抜ける山越えの一節。「大山をのぼつて日既暮ければ、封人(ほうじん)の家を見かけて舎(やどり)を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す」とある。「封人」とは、藩境を警備するお役人。馬屋の一角でもあてがわれたのだろうか、「蚤虱馬の尿(しと)する枕もと」の一句。脚注には「一晩中蚤や虱にせせられ眠るどころではない。その上枕もとでは馬が尿をする」とある。

 そこから先は道なき道なので、道案内をつけることになった。脇差しで武装し、杖を手に進む屈強の若者。その後ろ姿を見ながら、「けふこそ必あやうきめにもあふべき日なれと、辛(から)き思ひをなして後について行(ゆく)」。「高山森々として」「木の下闇茂りあひて」「篠の中踏分(ふみわけ)」「水をわたり」「肌につめたき汗を流して」、ようやく「最上の庄に出づ」ということになった。

 山形県内を巡って、新暦7月下旬には、出羽三山の主峰月山に登っている。標高2000mほどもある高山である。「雲霧山気の中に、氷雪を踏てのぼる事八里」「息絶(たえ)身こゞえて」頂上に着くと、日は暮れ、月が顔を見せていた。笹を敷いて「篠を枕として、臥て明るを待(まつ)」。野宿したともとれるが、曽良の日記では山頂近くに小屋があったという。いずれにしても、ハードな高齢者ハイキングではある。

 この紀行からは、江戸前期の東北の人々の暮らしをうかがうことができる。仙台を過ぎて海辺の集落を巡るあたりは、一つの読みどころだ。「石の巻といふ湊に出(いづ)。『こがね花咲』とよみて奉たる金花山、海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立つゞけたり」。今回の大津波で大打撃を受けた石巻の当時の街景だ。港町のにぎわいが伝わってくる。

 本題と離れるが、これよりも早く「名取川を渡て仙台に入(いる)。あやめふく日也」という1行に出会ったときは、思わず胸が詰まった。去年3月、大津波が逆流する様子をテレビ画面で呆然と眺めることになった、あの川の名ではないか。

 この紀行でもう一つ感じとれるのは、その時空観の壮大さだろう。冒頭の「月日は百代(はくたい)の過客にして、行かふ年も又旅人也」というよく知られた一文は、その前触れとみることもできる。

 空間軸の大きさを感じさせるのは、越後路での名句「荒海や佐渡によこたふ天河」だ。日本人は花鳥風月を好み、夜空といえば月だった。銀河系そのもの――我々がいる銀河という認識はなかったにしても――を海に対置した感覚はどこか突き抜けている。

 時間軸では、「千歳(せんざい)の記念(かたみ)」という言葉が印象に残る。たとえば、仙台近郊の多賀城址で西暦700年代の東北「討伐」の史実をとどめた石碑に出会ったくだり。「山崩川流て道あらたまり、石は埋て土にかくれ、木を老て若木にかはれば、時移り、代変じて、其跡たしかならぬ事のみ」なのに、この「石ぶみ」を見て「疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲(けみ)す」とある。

 天平の世は、僕たちからみれば1200年余り前だが、芭蕉からみても900年ほども昔のことだった。古代の一時代を、江戸前期の文人と僕たちが同じ「千年」の距離感でとらえていることに奇妙な感慨を覚える。

 だが、こうした過去への思いの馳せ方に、都びとの視座があることは否めない。その限りでは、『東北学……』で赤坂憲雄さんが書いたように、芭蕉は「辺境へのロマン主義」に駆り立てられ、「都から辺土の地に降り立った旅の詩人」だった。その視点に立てば、東北は、風雅の情を呼び起こす対象として「もてはやされ、いや、弄(もてあそ)ばれてきた」のである。

 最後に触れるべきは、やはりこの句か。新暦8月下旬、日本海沿いの難所、親不知に近い新潟県の市振で詠んだ「一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月」。同じ宿に、お伊勢参りの途上にある新潟の遊女二人がいて、僧侶姿の芭蕉らに「行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡(おんあと)をしたひ侍ん」と同行を請われるが、立ち寄り先が多いことなどを理由に、それを断ったというのだ。

 この句の脚注に「全く境遇の違うものが一家に泊り合わす因縁があっても、結局別れ別れとなる、会者定離が人生なのだ、との感慨を含む」とあるが、おそらく、それだけではないだろう。遊女から思いも寄らぬ頼みごとをされたことが、わびさびの人とされる初老芭蕉の心に小さなざわつきをもたらした、ということはなかったか。そう思うのは、この紀行で、このくだりだけは妙に人間の匂いがするからだ。

 そこで拙句――初夏の夜に芭蕉もさわぐ文を読む

関連記事

ページトップへ戻る