文理悠々

震災1年、脱柳田の東北学を読む

2012年03月09日

大雪で渋滞する国道4号。東北は、いつも厳しい自然にさらされてきた=2月1日、岩手県北上市で葛谷晋吾撮影

 あの日から1年、真っ先に思い出すのは、僕たちを打ちのめした空撮映像だ。昼下がり、気だるい気分で社内の会議に臨んでいたとき、僕も長く、大きく、揺さぶられた。机に戻ると、本や資料がなだれのように崩れ落ちていた。大変なことが起こった。それだけはわかった。だが、これが点や線ではなく、面の規模で人々の暮らしを押し流す災害だと思い知ったのは、テレビが上空から、家々や農地をのみ込む津波をとらえたときだ。

 東日本大震災から1年。その日を前に、どんな本のことを語ろうか。いろいろと考えた。科学記者として、なによりも衝撃を受けたのは、福島第一原発の原子力災害だ。原発のこと、科学技術のこと、これからのエネルギーのこと、読みたい本や語りたい本はたくさんある。だが、3・11のその日となると、あの映像から逃れられない。いくたびも津波に襲われながら、生き延びてきた東北のことを、もっと知りたいと思った。

 『東北学/忘れられた東北』(赤坂憲雄著、講談社学術文庫)。この本が作品社から単行本(『東北学へ1 もうひとつの東北から』)として刊行されたのは1996年。3・11後の今、「がんばろう、東北」の声はあちこちで耳にする。だが、つい最近までは副題の通り、東北は「忘れられた」存在だった。

 私事になるが、僕にとっても東北は視野の辺縁にあったことを認めないわけにはいかない。東京出身だが、会社生活で言えば、半分くらい北陸や関西で暮らした。西日本の歴史には触れる機会が多かったが、東北とは疎遠だった。啄木のふるさと、太宰の翳り、賢治の星空……それらは、どれも魅力に富んでいるが、東北の外に暮らす者の多くにとっては「遠くにありて思うもの」だったかもしれない。

 『東北学……』は、東京生まれの民俗学者が、車を駆って東北一円を回り、人々の話を聴いた記録だ。山形の大学に赴任するのを機に一念発起して運転免許をとったのだという。「三年半足らずの間におよそ四万キロ走った」というから精力的な踏査だ。そこに姿を現した世界は、これまでの日本人が思い描く東北像をはるかに超える。もしかしたら、東北に住む人々にとっても、目新しく映る郷里のイメージではないだろうか。

 この本は、『遠野物語』を世に出した民俗学者、柳田国男の東北観にノーを突きつけるところに立脚点を置いている。著者が、この本よりも先に書いた「幻像としての常民――柳田国男、または東北の変容」という論考は、「ひたすら、その柳田の発見した東北イメージにたいする異議申し立てをめざした」ものだった、と打ち明ける。柳田が考えた東北のどこが、批判的に受け止められたのだろうか。

 著者によれば、柳田は「稲を作る百姓が『常民』」とみており、その民俗学は「稲と常民と祖霊信仰が三位一体をなして形作られている」。それは、「古代律令制の成立以来、稲=コメは国家の租税体系の中心につねに置かれてきた」ことと軌を一にする。

 だが、この稲中心の社会像は東北日本にも当てはまるのか。著者は、菅江真澄の日記『奥のてぶり』東洋文庫版の註に「下北地方では米をほとんど作らなかった」という一文を見つける。『むつ市史・民俗編』を開いて、稲の作付けが広まったのは明治30年代から大正末期で、それまでは稗(ヒエ)の時代だったと知る。こうして「稲を作る常民たちの東北という懐かしいイメージは、根底から崩れていった」というのだ。

 著者自身の取材も、それを裏づける。たとえば、北上山地の山懐に抱かれる岩手県九戸郡山形村(現・久慈市)の木藤古(きとうご)。著者が訪ねたとき、そのたった5軒の集落では「ヒエ・アワ・キビ・ソバなどを主とした、昔ながらの雑穀農耕」が営まれており、「戦後、わずかに開かれた田んぼは、減反政策のために牧草地に変わり、見る影もない」状況にあった。

 ここで「雑穀とは奇妙な言葉だ。穀物のヒエラルキーの頂点にコメを位置づけ、それ以外の穀物を雑穀の名でひとくくりにする」という著者の言葉が、稲の国日本という「常識」から僕たちを解き放つ。稗(ヒエ)は「卑しい穀物と文字においてすら貶(おとし)められてきた」が、「かつてケガチ(飢饉)なしの穀物とよばれ」「野性味あふれる生命力は、天候不順や冷害にたいして、稲とは比較にならぬほどに強かった」のである。

 「雑穀」は、稲作文化とは異なる文化も生みだした。木藤古に伝わる「バッタリ」はその一例だろう。この「原始の匂いのする水力機械」は、ししおどしの原理で穀物をつく。著者は現地で、復元されたバッタリがキビを「ばったり、のったり、ゆったり」とつく様子をみて、平地の水車のリズムとの差異に気づく。「時間や空間との、それゆえ自然との道具を介した交わり方が、あるいは、世界観そのものが違う気がする」というのだ。

 忘れてならないのは、東北には、稲作が始まるよりも昔に固有の文化があった、ということだ。そのなかでひときわ目をひくのは、縄文時代のものとみられる環状列石(ストーンサークル)だ。秋田県北東部大湯温泉の近くで、直径数十メートルの範囲に二重の環を描く列石が二つ見つかっている。それらには、日時計のように真ん中に柱のような石を立てた円状の組石も添えられていて、意味ありげな構造物だ。

 大湯の環状列石を「共同墓地の遺構」とみる著者は、発掘調査などが「列石のまわりに規則的な同心円状をなす集落が営まれていた」という見方を支持しつつあることに注目する。そして、ここに「死者たちの空間を内部=中心に抱えこんだ集落のありよう」をみて結論づける。「かれらの他界観は、死を外部に排斥した弥生以降の人々の他界観とは、決定的な一線を画されるだろう」

 この本を読んでいて頭の片隅にちらつくのは、「征夷大将軍」という言葉だ。この職名が、後に国の最高実力者に与えられたことを思えば、東国に異なる文化圏を築いた「蝦夷(えみし)」を征することが、ヤマト、平城、平安の政権にとってどれほどの政策課題だったかがわかる。著者は、今日の東北にも、最初の征夷大将軍坂上田村麻呂の遠征の影が見え隠れすることを、丹念に浮かび上がらせる。

 それは、青森のネブタ絵にも表れていると著者はみる。「勇壮な戦いの図柄」に「弁慶・天草四郎・村上義光・明智光秀・平景清(かげきよ)といった、敗れた側に属し、非業(ひごう)の死を遂げた武将たちが好んで描かれていることは、田村麻呂に討たれる異族の側への心情的な荷担を暗示している気がする」と読み解く。そこから「遠く祖先に連なるかもしれぬ異族への鎮魂の旋律(しらべ)」が聴けるかもしれないというのだ。

 この『東北学……』は、煎じ詰めれば、柳田流の「ひとつの日本」論に対するアンチテーゼだ。著者の見立てでは、開国後、外国からやって来た知識人によって、近世まであった「いくつもの日本」は捨象され、「ひとつの日本」が見いだされたが、それを「内なる眼差しをもって発見し直した」のが柳田だった。著者は「ひとつの日本」に縛られることなく、「いくつもの日本」を露わにする作業の意義を説くのである。

 その意味では、この本が浮かび上がらせた「もうひとつの東北」像は「いくつもの日本」論を蘇らせるきっかけとなるだろう。

 いま、東日本大震災からの復興論議のなかで東北の未来像が盛んに語られている。このときに見過ごしてはならないのが、忘れられた「もうひとつの東北」を意識する視点だろう。

 それだけではない。日本社会を原発依存の集中型から自然エネルギー重視の分散型へ生まれ変わらせようというのなら、東北だけではなく列島全域で「もうひとつの……」を探る動きがあってよい。今こそ、明治以来の日本像を見直すときなのかもしれない。

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