樹滴 後藤みな子さん

2012年09月23日

作家の後藤みな子さん

■阿修羅になって書いた鎮魂歌

 8歳の夏。故郷の長崎に爆弾が落ちた。疎開先の福岡から母はひとりで爆心地に入り、旧制中学生だった兄の最期をみとって帰ってきた。深手を負った獣のような姿に変わり果て、何も語らず、大の字になって眠りつづける母。精神を病んでしまったことが、幼心にもわかった。
 『樹滴』は、原爆で崩壊した家族の長い戦後と正面から向き合った長編小説だ。老いて死にゆく父母の魂に寄り添う日々を描き、鎮魂の思いに満ちている。長い休筆期間を経て小説の刊行は40年ぶりになる。
 樹滴という題名は、ニューギニアから復員した父が廃虚の長崎で、焼けこげた樹から、未来の光のようにしたたる樹液を見た話にちなむ。
 母の無念をはらそうと、1971年に初めて書いた小説「刻(とき)を曳(ひ)く」で文芸賞を受け、芥川賞候補になった。しかし事実と虚構がまじる私(わたくし)小説は誤解されやすい。家族の恥をさらす親不孝ととる人もいて、父とは一時疎遠になった。東京で書いた小説は5編。74年に北九州へ移ってから、小説の筆を30年近く絶つ。
 長崎大学学長などを務めた父敏郎さんが93年に、母も回復しないまま98年に療養先で亡くなり、呪縛から解放されたように書きはじめる。
 「文学の力は恐ろしく深い。私は結局離れられません。『樹滴』は、阿修羅になって書きました」
 母殺しの深層心理がある、と文学研究者に指摘されたことがある。
 「本当に、心のなかで母を殺しながら生きてきました。自分の娘にさえ、母はとうに亡くなった、と長く隠していましたし。大きな罪です」
 67年前のあの刻を、いまも重く曳きながら生きている。
    ◇
深夜叢書〈そうしょ〉社・2100円

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