わたしとSF

吉川良太郎(SF作家) モノリスはエフィンジャー

2013年03月27日

銀河M87にあるブラックホールで、強い重力のために「事象の地平」付近のガスの流れがゆがむ様子をコンピューターで再現した画像(エイブリー・ブロデリック氏提供)

 どんなジャンルでも、そのファンになる人には「モノリス」と出会う経験があるんじゃなかろうか。それに触れたが最後、自分がそれ以前とは違う何者かになっていた経験が。パソコンを使い始めたらもう手書きには戻れないとか、一度コタツを出したら初夏までしまえないとか(しまえません)、猫に高級ネコ缶やったらカリカリを食べなくなったとか、そんなレベルの話じゃない。
 「さっきまでサルだったのに、気づいたら人間になっていた」
 くらいの体験があるのだ。たぶん。少なくとも、ぼくはそうだった。
 
 中2のころだから、あれは1990年の夏休みの一日。ぼくは田舎のとある書店にいた。
 やりたいことは何もないのに、時間だけはたっぷりある。狂騒の80年代が終わり、日本がちょっと元気をなくし始めていたころのことだった。
 そのころ、ぼくはSFがあまり好きではなかった。
本は読んでいた。読み漁(あさ)っていた。しかし、ぼくにはSFは合わないと思っていた。ロボットやロケット、未来や宇宙にロマンを感じないし、なによりSFに通底する「人間や科学への信頼」とそりが合わなかったのだ――と思っていた時点でろくにSFなど読んでなかったことを白状しているようなものだが、恥ずかしい若気の至りをこうして記録しておくことにも意味はあるだろう。
 そんなぼくを、モノリスはハヤカワ文庫の棚で待っていた。
その名は、G・A・エフィンジャー『重力が衰えるとき』といった。
 時は近未来。所はアラブの暗黒街。登場するのはギャング、娼婦(しょうふ)、ジャンキー、悪徳警官。人格モジュールを頭に差し込んだ探偵が……なんだこれ。ぼくの知ってるSFとなんか違う。サイバーパンクっていうのか。珍しいな。まあ、読んでみてもいいかな――繰り返すが、恥ずかしい若気の至りを記録しておくことにも意味はあるはずだ。たぶん。
 結局、その本は一日で読み終えた。感想は、翌日にはおなじ書店で続編『太陽の炎』を買ったといえば十分だろう。第三作『電脳砂漠』が出るまでに今度はギブスンに手を伸ばし、これもまたむさぼり読んだ。こんなSFがあるのかと驚いた。
 ブーダイーン、千葉シティ。人間と機械が融合する世界。遠い未来ではない、現在と地続きな近・未来。肉体と精神を再定義するテクノロジー。目もくらむ文化の混沌(こんとん)。異形のポップ・カルチャー。それらをさらりと受け入れ、マリードやキリガ、記憶屋ジョニイや殺し屋モリイら孤独な遊歩者たちは飄々(ひょうひょう)と歩く。
 そこには見たこともない自由があった。「人間」の定義を否定し、破壊し、作り替えていく自由。そんなもの現実世界では誰にも擁護されない自由だろうが、恐ろしいことにこれほど人間を解放してくれる自由もない。あっけらかんとデカダンな世界で、常識も道徳も、人間の存在をも軽々と逸脱していく者たち。ぼくはこの魅力的な犯罪者たちに夢中になった。もちろんエフィンジャーやギブスンのことだ。
 またそこには、映画でもマンガでも見たことがなかった世界が、言葉によって現れていた。SF特有の詩情、というより言葉の魔術に幻惑される体験。あるいはそれがSFを「読む」体験の最初だったかもしれない。
 
 そして、モノリスに触れたぼくはどうなったか? ――サルになった。
 逆行してどうすんだよ! とツッこみたいところだろうが、実際その後サイバーパンクだけでなくSFと見れば小説でもマンガでもラッキョウを与えられたニホンザルのように夢中でページをめくり、やがてひとまねこざるのジョージのごとく自分でも書き始めたのだから、やはりぼくはサルに逆行し、猛スピードで進化し直していたのだ。そして書くことの一種麻薬的な楽しさを覚えたのは、確実にこのころだった。
 それから十年ほどのち『ペロー・ザ・キャット全仕事』で運よくデビューさせていただいた。なんでサルからネコに進化(?)したのかは話せば長い別の話だけど、自分の原点があの夏休みに出会ったエフィンジャーだったことは確かなのだ。
    ◇
 よしかわ・りょうたろう 1976年、新潟市生まれ。中央大学大学院フランス文学科在学中の2001年、近未来フランスの暗黒街を舞台にした『ペロー・ザ・キャット全仕事』で第二回日本SF新人賞を受賞。近年の活動は映画『ヱヴァンゲリオン新劇場版』(脚本協力)、コミック『解剖医ハンター』(原作)など。

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