わたしとSF

上田早夕里(作家) 「世界」との距離を測るものとして

2013年05月29日

ジンベイザメの5代目「海くん」=海遊館提供

 子供の頃から児童書やテレビドラマでSFを身近に感じてきた世代なので、ごく自然に、呼吸をするようにSFを楽しんできました。子供時代には、自分が接しているものがSFというジャンルに属する作品だという意識は、まったくありませんでした。海外・国内作品ともに同時期に出会い、「どこか不思議で怖くて面白い作品群」という認識のみで先入観なく作品を読めたのは、いまにして思えば、最良の邂逅(かいこう)でした。
 20代の初めにサイバーパンクと出会って、ようやく、リアルタイムのジャンルSFを強烈に意識するという体験をしました。出版社主催の新人賞に応募し始めたのは、30代になってからです。いろいろと事情があって、自分にはそれ以外の道は残されていないのだと気づき、原稿を送るようになったのです。
 幸い、そのうちの一本が2003年に小松左京賞を受賞し、職業作家としてデビューできました。以後、SFと、SFではないもの(一般小説)の両方を書きながら生活しています。
 SFを好きになった理由は幾つかありますが、最も大きなポイントは、書き手(および読者)が「自己」と「世界」との間に、どのような距離を取っているか――それが見えやすいという部分でした。SFには、「自己」が「世界」に対して積極的に対峙(たいじ)する形式の物語が数多く存在します。そして、SFにおける「世界」とは、単なる「人間社会」という意味に留まりません。時には人類全体の価値にすら疑問を提示するような――もっと突き放した何かも含みます。
 クラシックなSFに社会の矛盾や不条理を突いた作品が多いのは、たぶん、この「世界」との距離感が見えやすい構造になっているからでしょう。また、SF作品に内在する叙情性は、一般的な意味での感傷だけでなく、「世界」との距離感が生み出す焦燥にも近いような気がします。
 SFの題材に科学が使われる場合でも、「世界」との距離の測り方に特徴があるように思えます。SF作品における科学が指し示すものは、理論の絶対性や不変性ではなく、理論を通して測られる何か――それが自己であれ世界であれ文学的な意味での人間性であれ――そこにこそ焦点があるように感じられます。だから、文学としてのSFと、学問としての科学の間には、明瞭な形で境界線を引くことができる。学問的な意味合いでは「嘘」であると承知の上で、その「嘘」を軽やかに楽しんでこそ、SFでしょう。
 私がSFに惹(ひ)かれ、いまも地道に書き続けているのは、この「測るための装置」としての機能が非常に面白く、自由な発想が許されているからです。そこには諧謔(かいぎゃく)があり、笑いがあり、皮肉があり、透徹した視座があります。
 そういう物の見え方があればこそ、多少はこの世が面白く、絶望に沈むだけの人生を送らずに済むように思えるのです。
    ◇
 うえだ・さゆり 1964年、神戸市生まれ。2003年『火星ダーク・バラード』で第4回小松左京賞を受賞、プロ作家活動に入る。11年『華竜の宮』で第32回日本SF大賞を受賞。他に『魚舟・獣舟』『リリエンタールの末裔』など。13年末に『華竜の宮』の姉妹編『深紅の碑文』を発刊予定。

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