わたしとSF

浅尾典彦(映画ライター・プロデューサー・夢人塔代表) ずっと好きでいればいい

2013年06月12日

浅尾典彦さん

 そういえば”物心ついた時”からSFワールドにどっぷりだったように思う。
 マンガは「火の鳥」(手塚治虫)が一番好きで、「デビルマン」(永井豪)、「ゲゲゲの鬼太郎」(水木しげる)と続いた。書籍は「SF教室」(筒井康隆)、「落語と私」(桂米朝)や、黒崎出版の「世界怪奇シリーズ」(南山宏ほか)や、立風書房の「世界妖怪図鑑」「日本妖怪図鑑」(佐藤有文)などを読みふけっていたが、まさか、それらを生みだされた方々が多くの参加されている「日本SF作家クラブ」に自分自身が入ることになるとは、当時、夢にも思わなかった。
 映像は特に魂をうばわれ、アニメは「アトム」(虫プロ)、特撮は「ウルトラQ」(円谷プロ)からテレビにかじりついて見た。「赤影」(東映)も「仮面ライダー」(同)も「妖怪人間ベム」(第一動画)もお気に入りだった。
 映画は、幼少の頃は、親の指定で東映動画とディズニー限定だった。その代わりに、家のテレビで毎日何本も見まくった。とりわけ「恐竜100万年」「ミクロの決死圏」「吸血狼男」などは、リピートの度に観ては心の深淵(しんえん)に深く深く刷り込まれていったのだった。
 小学校に上がったある時、「少年マガジン」のグラビア記事(大伴昌司監修)で”怪物と共に暮らすSFおじさん”のことが紹介されていた。名前をフォレスト・J・アッカーマンと言い、映画の小道具やたくさんの蔵書とともにハリウッドの山の手に住んでいるという。
 厳格な家で窮屈な子供時代を過ごしていた私は、「いい大人が、フランケンシュタインの怪物と添い寝している写真」が、何故かとっても羨(うらや)ましかった。私は「大きくなったらこんなおじさんになりたいな」とSF映画の世界にもあこがれを強くしていった。
 22歳の時、貯(た)めていた貯金を崩して「世界SF大会(L.A.con II)」参加のため、初めてアメリカに行った。会場はまさに幻想世界のカオスだった。望む「すべて」があった。楽しさがギシギシと音を立ててひしめいていた。私は、そのエネルギーに圧倒されていた。
 そこで、初めてアッカーマンと会った。あこがれのSFおじさんである。そして彼の紹介で、ハリーハウゼンにも会った。あの「恐竜100万年」を創った本人である。私は舞い上がった。だって夢にまで見た人たちだもの。
 私は勇気を出して、恐る恐るアッカーマンに尋ねた。「あなたのようにSFを広める人になりたいのですが、どうすればいいのですか?」彼は穏やかに言った「そんなのは簡単だ。好きでさえいればいい」それは、これまでにない素晴らしい言葉のプレゼントだった。
 それを信じた私は、日本に帰るとすぐに、学生の頃に始めた「夢人塔(ムジントウ)」という活動を本格化させた。SF・アニメ・ファンタジー・ホラーなど“ジャンル映像”専門のプロとして 面白いこと、自分がやれることは、すべて鬼のようにやり続けた。
 年間数百本の映画の宣伝にはじまり、新聞に「ホラー映画番長」なるコラムを連載し、中島らもや“ダース・ベイダー”役のデビッド・プラウズとのトークショーもした。「ゾンビ映画のオールナイト」「実相寺昭雄追悼上映会」に「赤影追悼上映」「安彦良和の映画世界」などのイベントを手がけ、テレビシリーズの「アウター・リミッツ」を、おそらくは世界で初めてオフィシャルで映画館での公開もした。最近では、B級映画を見ながら画面に突っ込む「グラインド・カフェ」や「ホラーマニアックス」映画祭も主催している。
 大阪市のインターネットテレビ番組「サブカルワンダーランド」のプロデュースも始め、文楽の床本(台本)にギャグを入れたり、JAXAの宇宙服を着てコントをやったりと相変わらず破天荒な展開である。
 そして、気が付くと、アレッ?何故かあこがれの「日本SF作家クラブ」の末席に座らせていただいているではないか。まことに不思議な巡り合わせだと思う。
 そんな夢人塔の活動は、今年で35年周年を迎えた。でも「日本SF作家クラブ」の歴史は今年なんと50周年である。まだまだ頑張らねばと、いま一度背筋をぐぐっと伸ばす私なのであった。
    ◇
 あさお・のりひこ 1962年、大阪生まれ。1970年代よりSF・アニメ・ファンタジー・ホラーなど“ジャンル映像”専門「夢人塔」の代表として、関西を中心に多彩なメディアで活躍する。著書に『マンガライトノベル入門』『アリス・イン・クラシックス』『アニメ・特撮・SF・映画メディア読本 ジャンルムービーへの招待』など。
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