医師が提起する「穏やかな最期」 六車由実さんが選ぶ本

2013年07月07日

七夕、人々の願いも風にそよぐ=5日、神奈川県平塚市、小玉重隆撮影

■自然な死とは

 介護施設で働く私は、以前、利用者さんたちに七夕の短冊を2枚ずつ書いてもらったことがある。すると、多くの方が、「早く死にたい」と自らの置かれた現状を嘆き、死を願望する言葉を1枚に書く一方で、もう1枚には、「宝くじが当たってほしい」といったもっと生きたいという願望を記していた。
 介護現場の高齢者たちは死を切実なものと感じているが、だからこそ生と死の願望の狭間で常に揺れ動いているのである。
 昨年、日本老年医学会は、高齢者への胃ろう造設や人工的水分補給の導入における意思決定プロセスのガイドラインを示した。延命治療を使命として胃ろうや点滴が疑問の余地なく行われてきたが、医師の側から、それが本人の人生にとって最善の方法なのかを、立ち止まって考える余地が示されたことは画期的であると評価できる。
 だが、一方で今後は患者の側に選択が迫られることになる。高齢者本人の意思が確認できない状況で実質的に選択を迫られる家族は、より大きな揺らぎを抱えることになる。いったい何が最善の方法なのか。

■延命治療は最善?
 医療現場で多くの死に向き合ってきた医師自身が、医療に頼らないで穏やかで自然な死を迎えることを勧める——そういう本が次々と刊行されている。
 長年高齢者の最期を看取(みと)ってきた特別養護老人ホームの常勤医の石飛幸三は、『「平穏死」のすすめ』で、胃ろうや点滴などの延命治療をしない自然な死を迎えることを勧めている。食べられなくなった高齢者に胃ろう等により多量の栄養や水分を摂取させることは、QOL(生命の質)の向上を望めないばかりでなく、「穏やかな最期」を阻害し、苦痛を与えるだけだというのだ。
 また、胃ろうや点滴ばかりでなく、抗がん剤治療も「穏やかな死」を妨げるものと否定する医師もいる〈『穏やかな死に医療はいらない』、中村仁一著『大往生したけりゃ医療とかかわるな』(幻冬舎新書・798円)〉。
 人は誰しも苦しんで死ぬよりも、穏やかに最期を迎えることを望むだろう。だが、延命治療を拒否し、肉体的に苦しまなければ、「穏やかな最期」を迎えることができるのだろうか。そもそも「穏やかな死」とは何か。
 末期がん患者の在宅緩和医療を行い、自らもがんで余命10カ月の宣告を受けた岡部健は、医療が幻覚として否定してきた「お迎え」現象に注目する(奥野修司著『看取り先生の遺言』)。「お迎え」とは、死に臨んで、すでに亡くなっている人や通常見ることのできない事物を見ることで、この世とあの世とのつながりを回復し、死にゆく人に死への道標を示して不安を和らげるものだ、というのである。

■肯定できる生を
 おそらくあの世とのつながりとともに、この世での家族とのつながりを回復することも「穏やかな最期」には欠かせないのではないか。先のガイドライン作成に携わった清水哲郎は『最期まで自分らしく生きるために』(NHKラジオテキスト、NHK出版・800円)で、本人も家族も、いずれにせよ死へと向かう目下の生を「これでいいのだ」と肯定できる人生の物語を共に紡ぐことができるかどうか、それが選択の決め手になると指摘する。言い換えれば、死にゆく本人と家族とが互いを赦(ゆる)し合い、感謝する時をすごすことができるか、ということであろう。肉体のケアとともに、彼岸と此岸(しがん)の狭間で揺らぐ魂の安寧が、終末期に求められる最善の方法なのではないだろうか。
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 むぐるま・ゆみ 民俗研究者・介護福祉士 70年生まれ。『驚きの介護民俗学』など。

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