文理悠々

「偶然」の科学、リベラルの論拠

2014年02月17日

偶然といえば、やっぱりサイコロ。本のカバーと同じでは申し訳ないので、カラフルなものを文具店で見つけた=尾関章撮影

 本読みは、偶然の賜物である。本屋に行く。華やいだ街の大手書店のこともある。駅前にある馴染みの本屋のこともある。自転車で乗りつける中古本ショップのこともある。目を書棚に並ぶ背表紙に走らせて、それが止まる一瞬が大事だ。「これだ」と思うと、その本と僕との間に関係性が生まれる。この「文理悠々」でとりあげてきた本のなかには、こんな瞬間を経て買い込んだものが多い。

 最近では、1月20日付当欄で紹介した『缶詰に愛をこめて』(小泉武夫著、朝日新書)や、2月3日付当欄の『「闇学」入門』(中野純著、集英社新書)がそうだ。背表紙にある「缶詰に愛」や「闇学」の字面が強烈だった。

 さて今回、当欄は200回目を迎えた。初回は2010年4月1日、「植草甚一の話から始めてみよう」だった。欄名は「めざせ文理両道!本読みナビ」。アスパラクラブ記者ブログの一つとして始まった。記事のようには書くな、肩の力を抜いて語りかけるように、というのが運営元の要請だった。ならばやっぱりこれだなと思って、1冊目には『したくないことはしない――植草甚一の青春』(津野海太郎著、新潮社)を選んだ。

 寂しいことに、アスパラ記者ブログは2012年9月に店じまいとなった。当欄は幸い、このブック・アサヒ・コムに引っ越すことができて、看板を「文理悠々」に塗りかえた。こんどはブログではなくコラム。「本読みナビ」時代よりはちょっと肩に力が入り、推敲の回数もふえた。ただ、それでも変わらない基本精神がある。本との気まぐれな出会いを大切にしよう、ということである。

 で、今週は『偶然の科学』(ダンカン・ワッツ著、青木創訳、ハヤカワ文庫)。邦訳は単行本が2年前に刊行されて、すぐに買ったような記憶もあるのだが、だとしても今は本の山に沈んで出てこない。それがたまたま、当欄200回目を目前にした今年1月に文庫本となった。ならば、その偶然に身をゆだね、この偶然の意味を考える偶然本に区切りの回を捧げてみよう。

 著者は、豪州生まれの米国の社会学者。もとは物理学の研究者だった。有名な仕事は、電子メールを使った世界規模の実験で「世間は狭いね」を確かめたことだ。人は地球上の誰とも概ね5~6人の知人を介せばつながる、という「小さな世界」の立証となった。

 そのネットワーク理論は、近年のデジタルメディアにも影響を与えている。去年、当欄「ハフポストの陰に理系知あり」(2013年8月26日付)で紹介した『メディアのあり方を変えた――米ハフィントン・ポストの衝撃』(牧野洋著、アスキー新書)にも、彼の知見が果たした役割が記されている。理系知を文系知に注入した人、ダンカン・ワッツ。その著作は「文理」200回を飾るにふさわしいと言えるだろう。

 『偶然の科学』でもっとも惹きつけられるのは、歴史は「気まぐれな教師」に過ぎないと強調しているところだ。そこからは、かつての決定論的な世界像から解放された今日の科学者の歴史観が見てとれる。カオスの科学は、一匹の蝶の小さな羽ばたきが海の向こうでハリケーンを引き起こす、というようなバタフライ効果を見いだした。ニュートン以来の決定論方程式にもとづく世界でも、事実上予測のつかない物事がそこここにある。

 著者は、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」も長く「あまり目立たない絵」であり、知名度がにわかに高まったきっかけは、20世紀初めにルーヴル美術館で起こった盗難事件だったことを指摘する。このあと、この絵を題材に風刺を込めたパロディ作品が生まれたり、あまたの広告がつくられたりして、名声は極点に達したのだという。盗難という偶発の一事が、蝶の羽ばたきだったのかもしれない。

 これは、偶然のサイコロが別の目を出せば歴史は別の筋書きになっていただろうという想像を呼び起こす。「〈モナ・リザ〉はこの世界では人気があるが、ほかの歴史ではよくある傑作のひとつにすぎず、われわれが聞いたこともないような別の絵が〈モナ・リザ〉の座を占めていることになる」のである。ここには、この世は偶然に満ちており、僕たちはいくつもの並立する可能世界の一つをたまたま生きている、という世界像がある。

 思えば、新聞記者ほどこの世界像が胸にストンと落ちる立場にいる職業集団はない。これこそは1面の記事だと思って出稿したものが、別の大事件によって後ろのページに追いやられ、小さな扱いになったという苦い経験を多くの記者がもっている。1面に出ていれば反響が大きく、世の中の流れになにがしかの影響を及ぼしたかもしれないが、そうでなかったために人々の印象に残らなかったというニュースは少なくない。

 ところが、新聞記者を含む僕たち人類は、歴史に必然を見ようとする。「われわれは歴史から教訓を学べるとたしかに思っているし、実際よりも多くを学んだかのように思いこみがち」なのだ。たとえば、「遅い決定論」と呼ばれる心理。これは「実際に起こった事柄を必然としてとらえる傾向」をいう。あるいは「あと知恵バイアス」という現象。こちらは「事が起こったあとになって『はじめからわかっていたのに』と思う傾向」だ。

 「標本抽出バイアス」もある。「電車に乗り遅れたときは印象に残るが、間に合ったときは必ずしも印象に残らない」といったことだ。飛行機事故の調査で要因がいくつか見つかると、それらがそろえば必ず事故になると考えがちだが、実際には何事もなく飛んでいることが多い。著者は「要因があるからといって事故が起こるとはかぎらないし、それほど起こりやすくなるとさえかぎらない」という。これも必然志向の表れだろう。

 これらはみな、人が時間軸に沿ってものを考えるときの落とし穴である。「遅い決定論」とは、「起こらなかった事柄に対してわれわれがしかるべき注意を払わないこと」にほかならない。「標本抽出バイアス」では、平穏な日常を捨象するので「起こった事柄の大部分にもじゅうぶんな注意を払わない」ことになる。こうした習性の行き着いた先にある思考の産物が、僕たちが「歴史」と呼ぶものだ。

 著者は、歴史哲学者アーサー・ダントの卓見を引いて、歴史家の語る話が「物語文」であることに目を向ける。「通常文」を「一年ほど前のある日の午後、庭でボブは薔薇を植えていた」とするなら「一年ほど前のある日の午後、庭でボブは賞をとることになる薔薇を植えていた」と綴るのが物語文だ。ボブの薔薇がなにがしかの賞を受けた後の視点で事実を記述する。歴史には、後知恵が内包されているのである。

 「黒鳥(ブラック・スワン)」もそうだ。これは「めったに起こらないが起こったときは重要な意味を持つ事件」をいう。たとえば、「バスティーユ牢獄の襲撃」。見落としてならないのは、これが黒鳥である理由は「襲撃」そのものにないことだ。それに続くフランス革命で「主権の概念が王に世襲される聖なる権利から、人民の生得の権利へと変わったこと」にある。黒鳥も「過去を振り返ったときしか特定できない」。

 歴史の罠は、未来を見通すときの罠でもある。偶然が組み込まれた世界では、僕たちの行く手にいくつもの可能世界が広がっている。だから、予測できるのはせいぜい、どの可能性が高いかといったことまでだが、人は「未来の可能性のうち、ひとつしか実現しないのを知っているので、どれがそのひとつなのかを知りたがる」。だから明日の天気について「降水確率は六〇パーセント」と聞くと「たぶん雨が降る」と思ってしまう。

 この本で痛快なのは、著者が偶然論を盾に市場万能論に斬り込んでいることである。そこでは、政治哲学者ジョン・ロールズの主張が参照される。現代社会では「たまたまある特質を備えていたり適切な機会を得たりした個人が、並はずれて大きな報酬を手にしうる」、そして「不平等が起こる仕組みは本質が偶然の産物であるのだから、公正な社会とはこうした偶然の不利な効果が最小化される社会」とする自由至上主義批判だ。

 いま日本社会では、弱者擁護のリベラリズムの退潮が著しい。この本で痛感するのは、リベラリズムを再建するときに求められるのは人文、社会系の学問だけではないということだ。理系知もまた、その礎となる。「文理」の本読み200回にそう思う。
(No.200おわり)

悠々広場
★虫さんから
 「文理悠々」200回記念、おめでとうございます。
 さて、今年1月の『偶然の科学』の文庫本化が尾関さんの視点からは「偶然」であっても、ハヤカワ文庫の出版戦略からすれば、相応の判断と段取りを踏んだ「必然」なのかも知れません。つまり、ハヤカワの視点では、たまたま尾関さんが文庫本になった『偶然の科学』を買ったことが「偶然」となる。そして、「文理悠々」で取り上げる本を探す必要のある尾関さんが書店に行ったことが「必然」であるとすれば、複数の必然が交差するところに「偶然」と見える出来事が起きたことになる。そして、同じ出来事でも、視点によって「偶然の中身」は真逆となる。面白いですね。
 歴史に「必然」を見ようとするところに危うさがあるのと同様に、もし「偶然」の支配を強調し過ぎることがあれば、これも危ういかも知れない。その「偶然」は、実は私が目指すのとは逆の方向にことを進めようとしている勢力の意図的な「必然」かも知れないからです。
☆尾関章から
 ありがとうございます。虫さんには、当欄の「本読みナビ」時代からおつきあいいただいていますね。今回の「偶然」論にも「必然」の罠があるというお話、なるほどと思います。ただ、だれかがどれほど「必然」の罠を仕掛けても、そこに避けがたく「偶然」がなおつきまとうというのが科学者ダンカン・ワッツの考え方なのではないか、と僕は読みました。これは、なかなかの本です。もしまだお読みでないのなら、ぜひ。

☆ 「文理悠々」では、お読みいただいた方々からのコメント、ご感想をお待ちしています。お受けしたもののうち、これはみなさんにお伝えしたいというお話は、ご趣旨を損ねないかたちでエッセンスを当欄でご紹介させていただこうと思います。ハンドルネームをご希望の場合はそれをご明記ください。
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 400字まで。ハンドルネームを選択されてもメールには実名をお書きください。お問い合わせをする場合などに備えてのことです。

☆いただいたコメント、ご感想は、投稿者の方が言及されている拙稿の回の「悠々広場」にお載せすることにしました。すでにこの方式で、「缶詰の孤独、缶詰の愛」(2014年1月20日付)、「闇好きが描く『暗い』未来」(2014年2月3日付)の回でご投稿を紹介しています。バックナンバーをご覧いただければ幸いです。

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