文理悠々

山田太一、甘い家庭の辛い断層

2014年02月24日

脚本家で小説家の山田太一さん。家庭を描くことで人と時代を見通してきた=2005年、東京都内で遠藤啓生撮影

 新聞記事を読んでいると、僕だったらこう書くのになあと思うことがある。中身に誤りがあるわけではない。その通りだなあと納得はする。それでも、僕という読者の個人的体感とはちょっとズレがある。そう感じる瞬間である。

 最近で言えば、脚本家で小説も書く山田太一さんが『月日の残像』(新潮社)というエッセー集を出した、という記事(朝日新聞2014年1月29日付夕刊)。40年来の太一ファンなので、吸い込まれるように読み進んだ。そして最後の段落。「表紙には夕暮れ時、川を渡る列車が描かれている」「1970~80年代の山田のホームドラマを想起させる光景だ」。うれしいなあ、この言及。僕は記者に内心拍手を送った。

 では、どこが「僕だったら……」なのか。それは、表紙で思い起こされるTVドラマに「岸辺のアルバム」と「沿線地図」しか挙がっていなかったことだ。世間の知名度なら当然そうなる。記事としてはバランスがとれている。だが僕にとっては、それらに先立つ「それぞれの秋」という連続ドラマが忘れられない。タイトルバックは、まさに多摩川を渡る東横線。そこに「肌の日焼けが薄れ……」といった歌詞の主題歌が静かにかぶさっていた。

 「それぞれ……」は73年、TBS系で放映された。ちょうど高度成長が極点に達した石油ショックの秋だ。定年間近のサラリーマン(小林桂樹)とその妻(久我美子)が営む家庭を、次男である大学生(小倉一郎)の目で描いた作品。兄(林隆三)の結婚をめぐるゴタゴタ、妹(高沢順子)の非行。気弱だが健気な次男は、豊かさの裏に危うさをはらむ家庭を必死で守ろうとする。その家族模様は、4年後の「岸辺……」を予感させるものだった。

 この番組のことは、小林桂樹さんが亡くなったときにも当欄で触れた(2010年9月23日付「小林桂樹の『ジーパンがはきたい』」)。終盤で父は脳腫瘍になり、意識が乱れるなかで戦後日本経済の苦難を語る。そこで口をついて出たのが「ジーパンがはきたい」という願望だった。戦時下を生き抜き、戦後の復興と成長を支えた世代と、その恩恵を受けてひたすら自由を求める息子や娘の世代。このドラマは、その位相差を見事に切りだした。

 「それぞれ…」は放映当時、とても新鮮なホームドラマだった。それまでは洋ものの「パパは何でも知っている」であれ、和製の「ただいま11人」であれ、予定調和の心地よさがあった。ところが、山田太一はスイートホームの甘さを愛おしみながら、そこに潜む苦さもすくいとった。家庭が甘いだけでなく苦くもあるのは、家族の一人ひとりが父や母、息子や娘である前に男であり、女であり、それぞれの時代の子であるからにほかならない。

 で、今週は、そんな家庭が時間の落とし穴に落ち込む小説『終りに見た街』(山田太一著、小学館文庫)。今回は電子本で読んだ。単行本は81年に中央公論社から出て文庫にもなっていた。それが去年、改めて文庫化された。著者は、あとがきで「三十二年前の小説ですが、読み返しても、ほとんど修正の必要を感じませんでした」と書く。いま読む人のため、ごく一部に手を入れているが、しなくてよかったかもしれない。それほど鮮度がある。

 物語の起点はやはり、東京郊外の丘陵地帯にある住宅地。主人公である47歳、TVドラマ脚本家の「私」は1981年、その高台のてっぺん近くに家を構えていた。「唯一のとりえは多摩川の眺望」で「一キロ足らずの遠くに川が見下ろせ、時間天候季節による水の光の変化を見るのは、ささやかな快楽だった」。視界には新宿の高層ビル群、二子玉川の高島屋。「鉄橋を渡る田園都市線の電車の灯りの連なりが美しかった」。まさに太一ワールドだ。

 ある朝、妻が青ざめた顔で起こしにくる。「私――どうかしたみたい」「外になにもないの」。雨戸を開くと森だったというのだ。「私」は妻が心を病んだのかと疑うが、違った。「ガラス戸へ近づくと、すくむような予感があり、庭を見ると――庭の向うが森であった」「いや森というのは妻のいい方で、雑木林というべきかもしれない」。そこにあるのは、宅地造成で削りとられる前の里山だった。「私」は家族ともども過去に飛んだのである。

 新宿副都心も見えない、ニコタマの高島屋もない、田園都市線の代わりに路面電車の玉川電車(玉電)が走っている。外の様子を見に出た「私」は神社のほうから届く声を耳にする。「いっときも、われわれは、忘れることは出来ないッ。陸に海(かい)に空(くう)に、連日激しい決戦が続けられている。負け続けの醜敵米英は、南太平洋に多量の飛行機を持ち込み、わが将兵に必死の抵抗をしている」

 境内には、木刀を手にした教師と予科練の歌をうたう子らがいた。「林立する竹槍。整列のなんという整然さ。そして、それを少しも乱さずに、精いっぱい怒鳴り続ける歌声」。道端の掲示板に貼られた告知から、44(昭和19)年初夏にいることがわかった。
 
 「われわれだけは一年二ヶ月後の終戦を知っているのだ。原爆が落されて、敗戦を迎えることを。それだけではない。それから三十六年間の日本人の経験を――マッカーサーも、帝銀事件も、レッドパージもオリンピックも万博もケネディ暗殺もニクソンもロッキードもレーガンも」。この小説の醍醐味は、人が過去に戻されて「未来」を知ることになったときにどんな心理に陥るか、という思考実験を日本の戦中戦後の時間軸で試みたことにある。

 「私」と妻、中学2年の信子、小学5年の稔の4人家族には、同様に過去に迷い込んだ道連れがいた。「私」の幼なじみ、敏夫さんとその息子の高校生、新也くんだ。6人は東京西部の住宅街に引っ越して共同生活を始める。あの時代の紙幣も硬貨も持ち合わせていないのに、どうして生計を立てられたのか。この本に出てくる妙案は、みなさんが過去に連れ去られたときにも使える手なので必読だ。もったいないので、種明かしはしないでおこう。

 それよりも、著者の家庭観を映していて見落とせないのは、「私」夫婦や敏夫さんの世代と、信子、稔、新也くんの世代の間にある位相差である。生まれたのは「私」と敏夫さんが戦前、妻は終戦直後、これに対して新也くんと信子、稔は60年代以降だ。

 たとえば、「私」は稔を戦時下の学校に通わせない。教師たちが「アメリカは悪の権化」という言葉を戦後、「アメリカこそ正義」と翻した史実を知っているので「教師には逆らうな、というようなことばかりを教えるというのは情けなかないだろうか」と考えたからだ。学校へ送りだして「戦争をやっている日本に適応しろ」と促すよりも、家にいて「戦争っていうものはこういうもんだ」と教え込もう、というのである。

 年が明けて45(昭和20)年、下町一帯が焼け野原になった3月10日の大空襲が近づいてくる。「私」は、「その日が間もなく来ることを、ただ放置している」自分にいてもたってもいられなくなる。「出来るはずだ。なにかが出来るはずだ」。夜、床に入って天井を見つめていると、妻もその話をもちだしてこう言う。「やった方がいいと思うわ」。そして「私」と妻と敏夫さんはアイデアを出し合って、大空襲の「減災」行動に打って出る。

 ところが、子どもたちは違う。時勢に逆らう親たちに批判的だ。新也くんは飛行機の翼をつくる工場で「連続月間増産」の表彰を受けたことを自慢して「国が亡びるかどうか、というときに、真剣に戦わない人間なんて、親でもぼくは許せませんねッ」。信子も加勢する。「稔だっていってるわ。うちへとじこめて、戦争の悪口ばっかり聞かせて――こんなのたまらないっていってるわ」。稔は泣きじゃくりながら「誰だって、やられりゃやるよ」。

 彼らは、日本社会から戦争の痕跡がほとんど消えた後に育った。10代なので時代に適応する能力もある。だから、戦禍を食いとめたい、それが無理ならせめて小さくしたいという親たちの思いが通じない。スイートホームに潜む世代の断層がのぞいた瞬間だった。

 この小説が書かれた1981年は、太平洋戦争と現在とを隔てる約70年間のほぼ折り返し点にあたる。新也くんや信子や稔があのとき過去に引き込まれず、2014年の今を生きているなら、もう立派な中年となって世の中を動かしているはずだ。そう考えると、近年顕著になった戦後民主主義の急激な退潮は、「私」夫婦や敏夫さんが戦時中にわが子が変わるさまに呆然とした体験と同根のように見える。

 山田太一は過去を描きながら、2010年代という未来を見通していたのである。
(No.201おわり)

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