文理悠々

堺利彦に学ぶ「対抗勢力」のつくり方

2014年03月03日

売文社のシンボルマークをまねてみた。機関紙『へちまの花』に載った実物の絵柄 は、パンに刺さっているのが昔ながらのペン。おしゃれなことに手前にワイングラス も置いてある=尾関章撮影

明治から昭和初期に活躍した社会主義運動の草分け、堺利彦=1931年1月撮影。

 一強多弱の風景ばかりを見せつけられている。暮れの国会審議がそうだった。都知事選挙もそうなった。日本の政治舞台では、「対抗勢力」と呼ぶべきものがみるみるしぼみつつある。こんなはずじゃなかったのに、と思っている人は多いだろう。

 1990年代に55年体制が終わり、衆議院議員選挙に小選挙区制がもち込まれたころ、人々の頭の中には二大政党制のイメージがあった。権力を手にした与党に、次をうかがう野党がにらみを利かす。だから与党も独断専行とはいかない。有権者は、選挙のたびに投票のさじ加減で世の中を動かせる――そんな民主主義の醍醐味を実感できるはずだったのだが、いま僕たちの前にはまったく違う現実がある。

 それには、わけがある。二大政党のもう一つの柱となるべき政党が寄り合い所帯だからだ。保守政党にいた人がいる。社会主義政党にいた人がいる。市民運動家だった人もいれば政経塾出身の新世代政治家もいる。労働組合出身の人がいるかと思えば、労組依存を嫌う人もいる。いろいろな人がいるのはよいことだが、色合いの異なる人々の志を緩く束ねる大きな方向性が見えてこない。だから、二大政党をつくるためだけの政党になってしまった。

 世界を見れば、そんなことはない。欧州には、保守勢力に対して社会民主主義勢力がしっかり根を下ろしている。欧州社民は90年代、ソ連崩壊の記憶が生々しいころでも政権を次々に奪い取り、英国にブレア政権を、ドイツにシュレーダー政権を生みだした。米国はどうか。二大政党ともそれぞれの議員の主張に幅があるが、大きくみれば共和党が保守を代弁し、民主党がリベラルの側に立つという構図がみてとれる。

 では、どうして日本には保守に比肩する「対抗勢力」がないのだろう。この問いに答えを出すのはなかなか難しい。ただ、その根深さは僕らの世代には皮膚感覚でわかる。左翼が分裂する光景を、少年だった60年代のころからずっと見せつけられてきたからだ。

 大人の世界では、日本社会党という党がいつもゴタゴタを繰り返していた。55年、保守合同に先立って左右両派が統一したにもかかわらず、さっそく60年に右寄りの議員が飛び出て民主社会党(後の民社党)をつくった。残った党内でも、階級闘争による革命をめざす左派と構造改革路線をとる右派は互いに相容れず、その対立は委員長や書記長の改選期にいつも火種となった。

 大人ばかりではない。70年前後の学生運動を振り返れば、共産主義、社会主義を掲げるいくつものセクトが乱立していた。それぞれには主張があり、袂を分かつだけの理由があったのだろう。だが、その流れの果てには、内ゲバというもっとも悲惨な事態も待ち受けていた。世直しを考えているうちに自らの信念と異なる見解を受け入れられなくなる。左翼運動の同時代史をみると、そんな心理傾向が強いような気がしてならない。
 
 で、今週は、日本の左翼の源流をうかがい知ることができる一冊。『パンとペン――社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』(黒岩比佐子著、講談社文庫)。堺(1871~1933)は明治、大正、昭和戦前の世で社会主義の志を貫いた人である。と同時に、他者の思想に対する理解を併せもつ寛容の人でもあった。この本は、いまの日本社会に保守と向き合う「対抗勢力」を築こうとしている人々には必読の書と言えるだろう。

 著者は58年生まれのノンフィクション作家。あとがきによれば「五分の四まで書き進め、あとひと息というところで、膵臓がんを宣告される」。単行本が出版された2010年10月の1カ月後に永眠。生命の最後の一滴をしぼり出したような本である。彼女はポストイデオロギー世代。視線は、政治運動そのものよりも人間堺利彦に向かう。そのことがかえって、政治運動のありように対する痛烈な批判になっているように思う。

 堺は明治初年、福岡県で士族の家に生まれ、東京に出て第一高等中学校(後の第一高等学校)に進むが、放蕩の末に除名される。その後、新聞記者になったり、文筆、編集活動をしたりしているうちに社会主義と出会う。人脈は広く、「大逆事件」で処刑された幸徳秋水とも、関東大震災直後に憲兵隊本部で虐殺された大杉栄とも深いつきあいがあった。両事件のとき、自身はたまたま服役中だったり拘留中だったりして「命拾い」したのである。

 明治の終わり、草創期にある日本の社会主義陣営では、すでに「直接行動派」と「議会政策派」の対立が激化していた。そんなとき、「陣営の内部に考え方が異なる分派があっても、できるだけ対立を避けて、協調を図ろうとしていたのが堺だった」。転向者が「社会主義の非を悟った」という趣旨の本を出したときですら、「彼が真面目にそう思っているのなら、仕方がない」と冷静に受けとめたという。

 この本に引用された堺の運動観では、1914年に『近代思想』誌に寄稿した「大杉君と僕」がおもしろい。大逆事件の数年後、「総ての社会主義者はこゝ暫く猫をかぶるの必要に迫られて居る」という認識に立った論考だ。日本の社会主義の系譜を、自分なりの座標で「右」から「左」へ順に国家社会主義、社会主義・共産主義、無政府共産主義、個人的無政府主義と並べ、自身を社会主義・共産主義、大杉を無政府共産主義に位置づける。

 「僕が若し保護色を取るとすれば、一歩右隣に退却して国家社会主義に行くより外はない。然し退却はイヤである。そこで止むを得ず沈黙して居る次第である。然らば大杉君の立場はどうかと云ふに、是は一歩左隣に前進して個人的無政府主義に行けばよい。そこに文芸の中立地がある」。左シフトが「前進」で右シフトを「退却」としているのはいかにも左翼だが、運動を鳥の目で見渡して、それぞれの生き方を考える余裕がみてとれる。

 堺の思想を読み解くとき、鍵となるのは「家庭」のようだ。1903年には、自身が創刊した『家庭雑誌』に「我輩の根本思想」の表題で「社会主義より見る時は、夫婦は平等にして、相愛し相助け、真の共同生活を為すのが家の理想である」「家庭の中よりして漸々(だんだん)社会主義を発達せしめて行かねばならぬ」と書いた。これに先立つ著作では、上流家庭ではない「中等社会」の娘たちに、就学、就職、晩婚、共働きを勧めているという。

 「赤旗事件」で服役中だった1909年、妻為子が髪結いの仕事を始めると手紙でアイデアを授ける。「先づ大きな写真屋を廻つて、あらゆる髪の結方の写真を集める、そしてそれを見て色々工夫を凝(こら)し、研究を積む、又それを表看板にも使ふ……」。ここに理念本位の革命家はいない。妻と知恵を出し合って共同生活を営もうという夫がいる。そして、社会主義者にしておくのがもったいないほどの市場感覚の持ち主がいる。

 この獄中で思いついたのが、本の副題にもある「売文社」である。新聞や雑誌、書籍の原稿づくり、外国語の翻訳、演説や講義、談話の筆記、趣意書や意見書、報告書、祝辞、広告文、手紙の立案、代作、添削といった「文」にかかわるあらゆる作業をこなす会社だ。「まさに、広告代理店・編集プロダクション・翻訳会社の業務を一手に引き受けている」。自社の広告には、パンにペンを突き刺したマークが添えられた。

 著者は、史料をとことん漁って売文社の商いを跡づける。書籍をみても、財テク本、海外旅行案内本、そして競馬界の大物が著者となり、宮内省にも届けられたらしい馬の本……。これらを、堺のもとに集う社会主義者たちがつくったというのだ。資本家に手を貸しているではないかという批判が届くと、堺の盟友山川均はこう答えたという。「資本家的経済組織てふ大機械中の一小歯車となることの外に、生活の方法を見出し得ざることを告白する」

 売文社には、「対抗勢力」が生き延び、根を張るのに必要な大らかさとしたたかさがあった。機関紙『へちまの花』は「飄逸(ひょういつ)で遊び心に満ちたメディア」で、人物評が特集されたり、料理店の広告が出たりして、人のにおいのする紙面だったらしい。その社風を支えたのは、堺の文人としての懐の深さ、幅の広さだ。『マイ・フェア・レディ』の原作であるバーナード・ショーの『ピグマリオン』を国内にいち早く紹介したのも堺だった。

 著者は、左翼運動の政党や結社よりも、その担い手たちがパンを得るためにペンをふるった拠点に光を当てた。ここに、この本の新鮮さがある。中心にいた堺の寛容で強靭な精神がきちんと受け継がれていたら、戦後日本の政治地図も変わっていたように思う。
(No.202おわり)

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