文理悠々

東北フォークソング街道の力

2014年03月10日

岩手県西和賀町沢内の「およねまつり」=2013年9月、中井征勝撮影

 ライライライライラライ、ライライライライラライ……。最近、テレビを見ていると、スキンケア化粧品のコマーシャルで、こんな懐かしい歌が流れてくる。原題は“Those were the days”。あのころのハリと潤いを今も、ということなのだろう。1960年末に大ヒットした。日本語版は「悲しき天使」の題がついてラブソングになったが、英語版は「いい時代があったね」と昔を懐かしむ歌だった。

 サビの部分を意訳して要約すれば、あの懐かしい日々、それは終わることなく続くと思っていたね。いつまでも歌い踊り、生きたいように生き、負けることは絶対にないと。だって、わたしたちは若く、わがままだったんだから……というような感じだ。英詞をつけたのはジーン・ラスキンとされているが、もともとはロシアの唄だったらしい。たしかにその旋律からは、ロシア民謡の雰囲気が感じとれる。

 大売れに売れたレコードの歌手はメリー・ホプキン。今流なら、「メアリー」と表記するところだろう。レーベルは、ビートルズのアップル・レコード。僕も高校生のころ、シングル盤を買った。ジャケット写真のメリーは僕と同世代。ミニスカートで芝生に横座りしてギターを抱えている姿がそれなりにセクシーだったが、どこか純朴な女の子という感じがあった。どうしてそうだったのか。

 今回、このヒット曲をめぐる情報をネットで漁ってみて、その理由がなんとなくわかった。メリーはウェールズ生まれ、少女時代から故郷の民謡を歌っていたらしい。ベテランとなった今も、彼女の公式サイトには「ウェールズ民謡歌手」とある。

 英国には、アングロ・サクソン人やノルマン人が入り込む前からいたケルト人の文化や言語が今も残っている。ケルト色がとりわけ濃いのはウェールズやスコットランド、北アイルランド。民謡の宝庫である。「故郷の空」「アニーローリー」「ダニーボーイ」……スコットランド民謡やアイルランド民謡のいくつかを思い出せばわかるように、そこには哀調と明るさの同居がある。この一点で、東北日本の民謡に通じているように思う。

 ケルト文化と東北文化は、言葉でも相通じているのかもしれない。ケルト系言語については判断がつきかねるが、北アイルランドの人がしゃべる英語方言を聞いて東北弁に似ているなと感じたことはある。そのイントネーションで、ふと寺山修司を思った。

 思えば二つの文化はともに、「征」の字を受動態で感じる歴史を背負っている。いつも征服者の脅威と向き合い、闘ったり耐えたりしてきたのだ。その人々を支えてきたのが草の根の歌なのだろう。で、今週の一冊は『東北を聴く――民謡の原点を訪ねて』(佐々木幹郎著、岩波新書)。僕は「民謡歌手」メリー・ホプキンに「もっと、足もとのフォークソングを聴きなさいよ」と叱られた気がして、東北民謡の世界をのぞいてみることにした。

 著者は1947年生まれの詩人。関西出身の人だ。東北との鮮烈な出会いは、70年代の津軽三味線ブームにあったらしい。初代の高橋竹山が、東京・渋谷の小劇場ジァン・ジァンで演奏会を開いて、ジャズ世代、ロック世代の若者の心をとらえたころだった。「ピンク・フロイドを好きだったわたしが、何の違和感もなく、民俗音楽としてではなく、民謡でもなく、現代の音楽として、竹山の津軽三味線を聴いていた」

 この本は、初代の後を継いだ二代目竹山が東日本大震災後、被災地を演奏旅行で回ったとき、それに同行して取材執筆した雑誌連載が土台になっている。2011年秋から翌夏にかけてのことだ。二代目は東京出身。少女時代から三味線に親しみ、18歳で初代の弟子になった。師に仕込まれた東北の民謡精神を受け継ぎながら、海外活動やジャズミュージシャンとのコラボにも熱心な三味線奏者である。

 この本が焦点をあてているのは、東北民謡のうち「牛方節(南部牛追唄)」「新相馬節」「会津磐梯山」「斎太郎節」の四つだ。僕はここで「牛方節」をとりあげたい。その成り立ちと背景を深掘りした著者の取材が、民謡の民謡らしさをあぶりだしているように思えるからだ。この唄は岩手県の民謡。「荷駄を背負った牛を何頭も連れて山道を歩く『牛方』と呼ばれた人々のワークソングだ」

 歌詞には「牛(ベコ)よ けっぱれでゃエ この坂ひとつ/この坂越えればエ 楽になる」とある。唄の発祥地らしいと著者がみるのは、北上山地の山あいにある葛巻町一帯。牛の産地で、牛方も大勢いた。運んでいたのが、海沿いの野田村でつくられる塩だ。「『野田塩』は、牛の背に乗せられて北上山地を越え、岩手郡や紫波(しわ)郡、盛岡などに運ばれ、穀物と交換された」。名づけて「塩街道」。貨幣経済一歩手前の物々交換の世界があった。

 おもしろいのは、牛方節がほかの唄と旋律や詞を自在に行き来させているという話だ。一例は、葛巻町に合併された旧江刈村でうたわれてきた「江刈牛方節」だ。著者と二代目竹山が録音を聴くと「実に陽気な牛方節」だった。二代目は言う。「わたしが初代から教えてもらった牛方節と、基本的に別物ですね」。驚かされたのは、その旋律が地元に伝わる「馬方節」と同じこと。逆に、馬方節の歌詞の一部は牛方節とほぼ同じだった。

 地元の元教師が謎を解く鍵を教えてくれた。野田から葛巻まで山を越えるとき、峠の登り口に中継ぎの宿(塩宿)があり、馬から牛へ荷を載せかえることがあったというのだ。馬は平地の短距離に向き、牛は山道や長距離に適しているためらしい。「馬方と牛方は同じ道を行き来し、塩宿で交流していた」。だから「当然、同じような唄をうたったわけだ。メロディもいつのまにか、どちらのものかわからなくなった」と著者はみる。

 いまは岩手県西和賀町に含まれる旧沢内村の「沢内甚句」も、牛方節と交わりがあったらしい。「沢内三千石 お米の出どこ」という詞が、共通しているからだ。どちらも、七・七・七・五の音数律で入れ替えやすいということはあったのだろう。ただ、著者はここでも人々の交流に目を向ける。沢内村は塩の運び先の一つ。「牛方節でうたわれていた歌詞の一部が、いつのまにか甚句にも流入したということが十分考えられる」

 こうした話は、著作権に縛られすぎた今日の音楽状況への異議申し立てのように僕には思える。ものを書く者の一人として、著作権の大切さは重々承知している。だが、唄には、頭の片隅に残って次々に新しい唄を生むダイナミズムが潜んでいる。冒頭に紹介した「悲しき天使」も、そうした流れをたどったのだろう。コンピューターの基本ソフトにオープンソースがあるように、唄の世界ももう少し開かれてよいのではないか。

 さて、この本でもう一つ圧巻なのは、初代高橋竹山が生前、大津波に遭っていたという話である。初代は1910年の生まれで98年に亡くなっているから、もちろん東日本大震災ではない。33(昭和8)年3月3日未明に起こった三陸沖地震だ。初代は、塩街道の起点である野田村に「唄会」興行で来ていて、芸人仲間と宿にいた。まだ「竹山」を名乗る前のことだ。彼は、幼いころの病気がもとで半盲目だった。どのようにして逃げたのか。

 この本は、『自伝・津軽三味線ひとり旅』(新書館、後に『津軽三味線ひとり旅』の書名で中公文庫)に収められた本人の体験談を引用している。初代と地元の人とのやりとりはこうだ。「もし津波来たら、どこさ逃げればいいべ」「ここの上の煙草屋へいけば大丈夫だ」「村はずれまでいってから、山へのぼってたんでは、とてもまにあわねえべ」「ここの裏から、山の竹やぶこいで、のぼっていけばいい、この上が煙草屋だから」

 今回の取材で、著者と二代目竹山は初代を山へ導いた人を探しあてた。2003年に102歳で死去した川崎ヨシさんだ。彼女の救助談を地元の人が録音してくれていたのである。その話は、初代が裏山を登るように言われたという記憶と符合する。平地経由では草に足をとられやすいので転んだりされたら起こせない、という地元の人ならではの判断をこう語っている。「くぞふじさ絡まって転ばさってあ、それごそ起ごしもーせーない」

 目のよく見えない若手三味線弾きの命を救ったのは、津波の脅威に繰り返しさらされてきた人々の機転だった。それがなければ、高橋竹山はおらず、二代目もいなかった。そう思うと、東北フォークソング街道のしたたかな生命力に圧倒されるのである。
(No.203おわり)

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