文理悠々

世は思考実験のタネばかり

2014年03月24日

「白熱教室」でおなじみのマイケル・サンデル教授と番組のゲスト =2012年12月、東京・渋谷のNHK放送センター、氏岡真弓撮影

 「日本人以外お断り」が非難の的になった。Jリーグの試合中、埼玉スタジアムのサポーター席入り口に掲げられた横断幕だ。これを批判する世論を見て、日本社会はまだ捨てたものではないな、と僕はほっとした。一方で事態収拾の動きには、不祥事には素早く手を打てという危機管理時代のマニュアル感覚も透けて見える。当事者を断罪しただけでは問題の根は絶てない。この文言のどこが罪深いのかを、もっと掘り下げるべきだろう。

 そこで思いついたのは、もし「埼玉県民以外お断り」だったならばどうだったかという思考実験だ。同じように排他的ではある。顔をしかめる人も多いだろう。ただ、サポーターの手書きとわかれば稚気のなせる業とみなされ、叱られたくらいで済んだかもしれない。

 では、埼玉県が「埼玉県民以外お断り」の席を設けたらどうだろう。とんでもないことのように思えるが、必ずしもそうではない。埼玉スタジアムに本拠を置く浦和レッズは浦和レッドダイヤモンズという会社が営んでおり、その公式サイトによれば株主に県も加わっている。納税者への還元という趣旨で一部の席を県民向けに限っても反発は起こらないだろう。こうみてくると、今回の問題の本質は「日本人以外」の一言にある。

 ここで浮かびあがってくるのは、「埼玉県民」とは異なる「日本人」という属性のややこしさだ。前者は住民票1枚でわかる。ところが後者は、国籍で決まるのか民族を指すのか、さまざまなとらえ方があって漠然としている。だから、と言うべきか、日本人は周りにいるのはみな日本人だと思いがちで、「日本人」は同質幻想の代名詞になっている。「日本人以外」は、異質なものを排除する心理の表れとしか見えないのである。

 日本人を埼玉県民に置き換えて「イフ」の世界を思い描くのが思考実験だ。それによって現実世界を読み解くことができる。おかげで僕は、横断幕にあった「日本人」と向き合い、国籍とは何か、民族とは何か、排他とは何かといった問いに思いを馳せたのだった。

 世に思考実験のタネは尽きない。ソチ冬季五輪で言えば、スキークロスカントリーでロシア選手のスキー板が折れたとき、カナダのコーチが代わりを差しだしたのを見て、そのタネに出会った。僕ははじめ、これはルールを度外視した「騎士道精神」の表れだろうと早とちりした。実際は、ルールブックに照らしても問題がなかったらしい。そうと知って「もしルール違反になるのだとしたら」というイフを試みてみた。

 他国選手を助けることが、その選手の失格につながるなら、あるいは自国選手に累が及ぶなら控えるべきなのだろう。だが僕は、たとえ「超法規」の措置をとっても、この行為を認めたいと思った。ときにルールに勝る高邁な精神があるからだ。

 で、今週の一冊は、ずばり『思考実験――世界と哲学をつなぐ75問』(岡本裕一朗著、ちくま新書)。著者は1954年生まれで、哲学と倫理学が専門の大学教授だ。あとがきによれば、この本は「若いころの苦い経験」から生まれたという。学生が「講義をちっとも聞いてくれなかった」ので感想や意見を求めたところ、「具体的な例を挙げてください」という答えが返ってきたという。その「具体的な例」の宝庫が思考実験である。

 著者によれば「『思考実験』という言葉はもともと、オーストリアの物理学者であり哲学者でもあるエルンスト・マッハ(一八三八―一九一六)が、はじめて注目した概念」だ。これは、理系の教育を受けた者にはピンとくる。マッハの思考実験はアインシュタインに影響を与えた。そして、アインシュタイン自身も思考実験を試みて相対論を築いた。現実の実験よりも理論家の頭脳のほうがずっと先に進んだ時代の物理学がそこにある。

 思考実験は最近、マイケル・サンデルの「白熱教室」でもてはやされて、その対象が世事全般に広がった。このブームに著者はやや批判的だ。「最近の『思考実験物』は、奇抜なアイデアを競って、自己目的化しているように見える。『思考実験』は、何かを構想するためにこそ案出されるもので、一つの手段である」。拙稿冒頭に挙げた二つの例も、「日本人」や「騎士道精神」をめぐる考察のための「手段」だったと言えよう。

 著者は古今東西の文献や映画などを渉猟して、思考実験とみなせる話75点を切りだしてくる。それらは、本文中に囲み記事風にちりばめられている。「題材によっては要約したり、言いかえる必要があったけれど、基本的な方針として、原典をそのまま引用することにした」という。僕が、その一つずつを味わいながら痛感したのは今日の科学と技術が思考実験のリアリティーを高めていることだ。

 哲学者デレク・パーフィットの著書『理由と人格』に出てくる「人間転送機」の思考実験がそうだ。この機械に入ると「〈スキャナー〉は、私のすべての細胞の正確な状態を記録しながら、私の脳と身体を破壊し、そしてこの情報を無線によって火星に発信するだろう。光速で旅行するこのメッセージは、三分間かかって火星の〈レプリケーター〉に届くだろう。するとそれは新しい物質から、私のものと寸分違わない脳と身体を作り出すだろう」。

 次に、脳も身体も壊さずに転送できる装置ができたとする。地球にいる「私」の原本と火星の複製が同時に存在するわけだ。「もし一人だけが私だとすれば、そのうちのどちらが『私』なのだろうか」。パーフィットは、地球の「私」がまもなく死んだ場合を考える。「地球の私と火星の私には、心理的な連続性がある。こうした連続性があるならば、地球上で私が数日後に死ぬとしても、火星のレプリカが生存し続けるので心配する必要はない」

 『理由と人格』の原著が刊行されたのは1984年。人間転送機は「すでに、テレビドラマ『スタートレック』の中では、おなじみの装置」だったが、裏を返せばSF世界のものでしかなかった。ところが90年代、量子力学の核心のしくみに根ざした量子情報科学が台頭して「量子テレポーテーション」の実験が大きく進む。モノではなく「正確な状態」というコトの伝送で自己までも飛んでいくことに現実味が加わったのである。

 人間転送機が登場する第一章の表題は「私はなぜ『私』だと言い切れるのか?」。そのことからもわかるように、思考実験の最大の醍醐味は、自己やら他者やら実在やらを語る哲学の問いだろう。ただ今日では、それが社会への広がりを帯びている。たとえば「善悪は何で判断すればよいのか?」という章では、BMI(ブレイン・マシーン・インタフェース)、すなわち「脳・神経系と機械・コンピュータを接続する技術」をとりあげる。

 ここで提示されるのは、映画化もされたマイクル・クライトンのSF小説『ターミナル・マン』(1972年)の要約だ。ハリーは交通事故で脳が傷つき、暴力的な発作を起こすようになったため、脳内に衝動抑制のマイクロチップを埋め込まれた、ところが発作はかえってひどくなった――という話だ。「ハリーが手術の後で、殺人事件を起こすとすれば、いったい誰が責任を取るのだろうか。ハリーにチップを埋め込んだ医師たちだろうか」

  「悪魔の手術」と指弾されたロボトミーを思い起こさせる話ではある。ただ最近では、BMIが障害者の大きな助けになるだろうと期待されている。「脊髄の損傷によって四肢がマヒした患者が、考えただけでコンピュータのキーボードを操作できるようになる」という時代が見えてきたのだ。このとき、「考えただけ」の「考え」が自分本来のものならよいのだろう。そこに自分以外が入り込まないかどうか、その水際にいま僕たちはいる。

 「人間の未来はどこへ向かうのか?」という章では、遺伝子技術をめぐる思考実験が列挙される。その技術の未来には、病気を治す「治療」だけでなく「エンハンスメント(能力増強)」の可能性も広がっている。これが進んだらどこに至るのか。

 生命科学の論客グレゴリー・ストックの『それでもヒトは人体を改変する』はこうみる。「私たちが最終的に姿を消すに到る道は、人類の失敗によってではなく人類の成功によって切り開かれるかもしれない。徐々に漸進的に自己変容していくことによって、私たちの子孫を、現在使われているような意味で人間とは呼べないほどに現在の人類とは違ったものに変えてしまうことができるかもしれない」。それは「疑似絶滅」に相当すると言う。

 生き延びて滅び、絶滅して生きる、という逆説。おそるべし思考実験、ではないか。
(No.205おわり)

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