「年度末」の向こう側

2014年03月31日

遊び心でパソコンの時計を「年度末」に合わせて見た。時間の境目の不思議さが見 えてくる=尾関章撮影

 3月31日は年度末。時の流れに区切りがあることを思い知らされる日である。とりわけ今年は、消費税5%最後の日ということで「きょうまで」「あすから」を意識する人が多いだろう。「文理悠々」も、ブック・アサヒ・コムのコラムとしてはきょうが最終回。

 この欄は、前身のアスパラクラブ「めざせ文理両道!本読みナビ」時代から4年間、ずっと「文理」の2文字を掲げてきた。新聞社という文系世界で科学記者を続けてきたせいか、僕には文系書と理系書を書店の棚のように画然と分ける感覚がないからだ。むしろ、雑食することで、文系知と理系知の共振を楽しんできた。一つ挙げれば、文学世界に現れる「時間」。これを理系目線で見ると新鮮な発見がある。時の節目に今回はそのことを語ってみたい。

 理系世界では、時間を“t”という文字で表して、空間の縦横高さ“x”、“y”、“z”に似たもう1本の座標軸でとらえることが多い。時間軸はニュートン物理の世界では唯一絶対のものだったが、アインシュタイン相対論の登場で、見る人の立場によって伸び縮みするようになった。ただ、それは空間でも同様だ。その意味では、空間軸との類推が強まったと言ってもよいだろう。

 だが、理系世界の別の局面では、もっと深遠な時間像がある。たとえば、エントロピーという言葉を生んだ熱力学の時間。整理整頓された机がいつのまにか資料の山と化けるように、世界は秩序から混沌へ向かっている。熱力学の第二法則である。ここでは時間軸が、行き来自由の空間軸とは違って向きを備えている。まさに覆水盆に返らず。汚染水が海に出れば広まる一方という拡散の脅威も、根っこにこの時間がある。

 量子力学の時間というものもある。原子や電子の量子世界では、人が物事を測ったとたんに事態が一変する。そこでは、いくつもの可能世界を束ねるような重ね合わせの状態が時間軸に沿って進んでいくが、その束が観測の瞬間にしぼんで一つの世界に固着する。どの一つに決まるかは偶然のなすままだ。人と世界の関係が、観測という行為をとった時点で変質する。のっぺりとした時間軸はない。

 こうした含蓄に富んだ時間イメージは、人々が日々の暮らしで体験する心理にも宿っているように僕は思う。思い出のティーカップを割って悔いるとき、そこには、物事は元に戻せないという熱力学の時間像がある。めったにない幸運を夢見て宝くじを買うとき、そこには、偶然によって物事が決まるという量子力学の時間像があるのかもしれない。文学の時間を理系感覚でとらえる醍醐味は、そんなところにある。

 で、今週の一冊は『国境の向こう側』(グレアム・グリーン著、高橋和久・他訳、ハヤカワepi文庫)。本邦初訳という表題作など16編を日本で独自に集めたものだ。去年11月に刊行された。グリーン(1904~1991)と言えば、ストーリーで大衆の心をとらえるザ・小説家だ。4次元時空に強いSF作家でも「意識の流れ」文学の旗手でもない。だが、手練れの作家の手になる小説らしい小説からも、時間の含蓄は味わうことができる。

 僕自身がもっとも驚かされたのは「ある老人の記憶」(田口俊樹訳)と題した小品だ。「私は一九九五年の今、これを書いている」の一文で始まり、前年94年にあった英仏海峡トンネル開通のことを叙述している。「えっ」と気づく人もいるだろう。作者は91年にすでに世を去っている。結果として、死後の未来をそのまた未来から振り返るかたちになった。その二重構造が現実らしさを妙に高めている。

 「開通に際しては、祝典が周到に準備され、そこを通る初めての列車二本が海峡の真ん中ですれちがう手筈になっていた」。フランスの列車がトンネルを抜け、英国のドーヴァーに姿を見せる。それを迎えるのは「四度目の選挙戦に勝利したサッチャー」だ。実際には94年、マーガレット・サッチャーはすでに首相の座になく、ジョン・メージャーが後を継いでいた。だから、この筋書きは僕たちが歩んでいる歴史とは別ものにほかならない。

 「海峡の反対側では、フランスの大統領がイギリスの列車を迎えようと待ちかまえていた。しかし、その列車が到着することはなかった。ニュースが飛び込んできたのは、まさにサッチャーが入念に用意したスピーチを披露しはじめたときのことだった。海峡の下で爆弾が炸裂し、イギリスの列車はフランスのカレーに到着するまえに破壊され、乗っていたすべての人間の命が失われたのだ」

 もちろん、そんなことは起こらなかった。その証拠は、いま僕がここでこんな文章を書いていることだ。実のところ僕は94年5月6日、英仏海峡トンネルが開通した日、その「イギリスの列車」の車中にいたのである。

 「エリザベス英女王が乗った一番列車は午前十時五十九分、英フォークストンからトンネルへ滑り込んだ」「列車の響きがとたんに滑らかになる。継ぎ目のないレールを走る音だ」「テーブルに置かれたグラスのシャンパンも、かすかに波打つだけだ」「英国時間の午前十一時三十一分、フランス時間で午後零時三十一分、車窓の片隅に、英国で見たのと同じ曇り空が飛び込んできた」――これは、当時の拙稿だ。

 列車には、英国内外のジャーナリストが大勢乗り合わせていた。僕はロンドン特派員として英国発フランス行きに乗り、パリ特派員はフランス発英国行きに乗車してそれぞれ記事を送ったのである。大した自慢にはならないが、英仏海峡を列車でくぐり抜けた日本人第1号だったのかもしれない。だが、作者の未来史では、その僕も「暗闇での死、海底での死、手足をもぎ取られ、溺れ、やがて訪れた死」に追いやられている。

 いったい、作者はこの短編にどんな意図を込めたのだろうか。それを読み解くのは難しい。ただ個人的にドキリとするのは、大作家の頭のなかで自分自身の「暗闇での死」がリアルに構想されていたことだ。人は量子力学の時間のなかにいる原子や電子と同じように、どの一つのシナリオに落ち着くのかがはっきりしない不確定な日々を過ごしている。落ち着き先の幅は「日本人第1号」と「暗闇での死」との隔たりほど広い。

 表題作「国境の向こう側」(木村政則訳)も謎めいている。未完だが絶筆ではない。作者は「前書き」で、作家の身の回りには「書きかけの小説」が多いはずだとして、「机の引き出しを探っていたら、そういう書きかけの小説の原稿がたまたま見つかった」と切りだす。そして「登場人物も場面も展開しかけの物語も面白く、一冊の本となって世に送り出された自分の作品の多くと比べても遜色がないように思えた」と自賛して発表したのである。

 植民地主義時代、海外で一旗揚げようと企む男と彼の仕事仲間の話。その一人、モロー青年が本国に戻り、彼らを送りだしたリヴァプールのニュー・シンジケート社を訪ねるところから物語は始まる。この仕事をやめると言い張って、こう付け加える。「ぜひとも聞いていただきたいことがある」「すべてが常軌を逸していました。黄金も、ハンズ自身も、大量の死も、コリーも。それからビリングズも」。海のかなたの「遠征」で何があったのか。

 次の章では2年前にさかのぼって、リーダーのハンズがこの会社に自分を売り込むころのことが詳述される。ハンズの仲間となるコリーやビリングズを描いた章もある。話の端々から、「遠征」先は西アフリカで狙いは「国境の向こう」の金鉱探しであること、先住の人々が大勢死んだらしいことがぼんやりと見えてくるが、何が起こったのかは不明だ。ハンズのハッタリも入り交じっていて実相は霧に包まれる。

 「遠征」から帰ったモローが、ニュー・シンジケート社で現地のものらしい地図を眺めたときの心象風景は印象深い。「モローの目には、それが曖昧な心理状態そのもの、自分がようやく逃げ出せたと思っている不可解な状況を表わしているようにも見えた」。読者がこの一編を読み終えてたどり着くのも、そんな「曖昧な心理状態」だろう。作者は未観測の量子世界のような空白の2年間を残したまま作品を立ち去った。

 この小説の原題は“The Other Side of the Border”。執筆を中断した理由は「前書き」に記されているが、境界線のあちら側に不確定を置く巧みさに出会うと、意図した未完とも勘ぐりたくなる。さて、年度末のあちら側にどんな世界が待ち受けているのだろうか。
(No.206おわり)

悠々広場
☆尾関章からごあいさつ
 ブック・アサヒ・コム「文理悠々」欄をこれまでお読みいただき、ありがとうございました。当欄を連載中に私は新聞社を去り、新聞記者とは違った立場で文章を書くようになりました。4月からは文字通り自立自律して、ブログ形式で「1週1冊」の本読みエッセイを続けていこうと思っています。
 ブログ名は「本読み by chance」。「本読み」「尾関章」の2語でネット検索すれば「再会」できる仕掛けにしました。アップ日は金曜日で、初回は来週11日を予定しています。
 最後にあらためて、読者のみなさん、コメントをいただいたみなさん、そして、代々の編集者のみなさん、退社後も当欄をつづけさせてくれた朝日新聞社に謝意を表して、ひとまずパソコンを閉じます。

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