内閣法制局と集団的自衛権 南野森さんが選ぶ本 

2014年04月27日

参院予算委で答弁する小松一郎内閣法制局長官=3月

■解釈が規範を明らかにする
 それにしても、集団的自衛権とはミスリーディングな名称である。要は、自衛権というより他国防衛権つまり「他衛権」がその本質であって、自国が攻撃されていないのに戦闘を始めうるというこの権利は、本来、実に恐ろしい代物のはずである。
 戦後日本は、憲法9条の下で自衛隊を保持し、その活動の幅を広げてきてしまったが、それでも、諸外国のような自国防衛も他国防衛もできる普通の戦力ではなく、自国防衛に必要最小限の実力のみが許されるというギリギリの政府解釈を維持してきた。現実との乖離(かいり)が甚だしいとの批判もあるが、それでも9条は、それがある限り、自衛隊の装備は自国防衛に必要最小限のものでなければならないし、海外への戦闘目的での派遣もできないなど、自衛隊の力をしっかり制限する重要な根拠となってきた。9条があってもなくても同じ、では全くない。
 ところが安倍政権は、この解釈を変更し「他衛権」をも認めようとしている。仮にそれが認められれば、自衛隊は、諸国と同じ普通の軍隊になり、したがって9条は独特の軍事力制限規範としての意味を失ってしまうだろう。それこそ、9条があってもなくても同じになる。このことは、日本の「この国のかたち」を根本的に変える余りにも重大な話であり、仮にかかる国柄の大転換が望ましいとしても、憲法改正をすっ飛ばし一内閣の一存で決めてよいはずがない。

■政府自身を拘束
 憲法が何を許し何を禁じているかは、憲法を解釈しなければわからない。解釈により規範が明らかになるのであって、つまり、公定の憲法解釈が変わるということは、憲法規範が変わるということである。裁判所は全ての条文の意味を明らかにしてくれるわけではないから、判例のない点についての政府の確立した憲法解釈は、現にある憲法規範として政府自身を拘束する。これを時の内閣が自在に変更してよいのであれば、もはやどの内閣でも、そしてどの論点でも解釈改憲は可能となり、したがって9条どころか憲法さえもがあってもなくても同じ、ということになってしまう。憲法を国民に取り戻すと言っていた安倍首相のやろうとしていることは、結果として、国民から、そして日本という国から憲法を奪い去ることにもなりかねない、極めて危険な禁じ手である。

■専門知が不可欠
 憲法も法であるから、その解釈は、判例や学説、政府解釈等との整合性にも配慮しながら論理的になされる必要がある。これには専門知が不可欠であり、政府内でその役割を担うのが内閣法制局である。内閣の法律顧問団として、内閣の追求する政策の良しあしではなく、それが憲法の枠内で実現可能か、それとも憲法改正しなければできないかを明らかにする、転轍手(てんてつしゅ)の役割を果たす組織である。ある政策を実現しようとするとき、それが法律で禁じられていれば政策を諦めるか法律を改正する。憲法で禁じられていれば、同様に、政策を諦めるか改憲するかのいずれかしかない。これが立憲政治の本道である。
 『政府の憲法解釈』は、膨大な議論の積み重ねを整理し、元内閣法制局長官である著者が解説を付したもの。「この国のかたち」を知るためにも重要である。『「法の番人」内閣法制局の矜持(きょうじ)』は、解釈改憲問題について考えるための必読書。集団的自衛権については『集団的自衛権とは何か』が分かりやすい。そしてまもなく憲法記念日、広く憲法とは何かを考えたい読書人には、渋谷秀樹『憲法への招待』(岩波新書・864円)を薦める。
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みなみの・しげる 九州大准教授(憲法学) 編書『憲法学の世界』『法学の世界』など。

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