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沖縄戦の記憶 北村毅さんが選ぶ本

2014年06月22日

沖縄戦犠牲者の名が刻まれている平和の礎(いしじ)。95年の「慰霊の日」に除幕された=沖縄県糸満市

■体験の「根」をたぐり寄せる
 明日は、沖縄の「慰霊の日」である。69年前、沖縄では住民を巻き込んだ地上戦が展開された。アジア太平洋戦争中、近代兵器で立ち向かってくる敵兵相手に民間人が竹槍(たけやり)を振らされ、自爆攻撃まで強いられた地域は日本国内では沖縄しかない。暮らしながらに戦闘に巻き込まれるとはいかなる体験だったのか。
 戦争を語るということには、体験や記憶といった認識の枠組みではとても整理しえない感情が生々しくつきまとう。作家の真尾(ましお)悦子が沖縄戦を体験した女性たちに取材した『いくさ世(ゆう)を生きて』(ちくま文庫・品切れ。電子書籍版あり)は、そのような生身の感情をつなぎ留めようとする試みである。戦争は概して悲惨の一語で片づけられがちだが、女性や子どもを戦渦に晒(さら)した戦争の一体何が悲惨だったのか、その内実を教えてくれる。

■生き残った苦悶
 沖縄戦中、女子学徒を引率した仲宗根政善の日記『ひめゆりと生きて』は、生き残った者の苦悶(くもん)が一身に詰め込まれているような書である。戦後沖縄の「受苦の歴程」とシンクロしながら、そのたび仲宗根は戦死した教え子の記憶とともに戦場に立ち返った。その日記には、戦争を語ることについて、「説明はことの葉である。ことの根ではない。根を伝えることは不可能である。しかし、根をこそ伝えるべきである」との記述があるが、かかる葛藤の前に体験者は沈黙しがちである。はたして、非体験者が「ことの根」に触れることは可能なのだろうか。
 そのような根をたぐり寄せようとする試みの一つとして、1960年生まれの沖縄出身の作家、目取真俊の『眼の奥の森』を挙げたい。沖縄戦中の米兵による性暴力を起点に展開する小説であるが、17歳でレイプされた少女の惨事はそれで終わることなく、幼なじみの少年を復讐(ふくしゅう)に駆り立て、家族や共同体との関わりの中で新たな暴力と狂気を孕(はら)ませていく。それから60年、いまだ戦場から抜け出せない当事者たちの内的世界が、戦前から延々と続く軍事的暴力に取り囲まれた沖縄の日常と共振しながら活写される。読者は、フィクションという手段で「ことの根」に迫ろうとする作家の気迫に圧倒されるだろう。

■「暴力」に抗する
 最後に、沖縄戦へと向かう道のりから何を学ぶべきか、その道標となる研究書を紹介したい。冨山一郎の『増補 戦場の記憶』であるが、初版が刊行されたのは95年、そこで提起された「戦場にいきつくプロセスが、極めてあたりまえの日常世界から開始されている」という問題認識は、より切実なものとなっている。著者は、国民の中に「異人」をつくり出す平時の規律が、沖縄戦の戦場を支配する軍律へと横滑りしていった過程を辿(たど)り直すことで、「軍事的暴力に抗する可能性」を見いだそうとした。この20年の社会変化の中で、大きな力に守られたい心を募らせ、軍事的暴力に身を委ねることに対する違和が飲み下されていった現実を前に、時代はすっかりこの本から取り残されてしまった感がある。
 以上の4冊を手がかりとして、かつて「自存自衛」と「東洋平和」を標榜(ひょうぼう)した戦争の果て、沖縄が切り捨てられた歴史的事実を噛(か)みしめる必要がある。「日本の平和と安全を守る」という「現実主義(リアリズム)」の名の下に、沖縄を国防の最前線に晒す安全保障論は、これまた私たちの「命と平和な暮らし」を危険に陥れる安全神話ではないのか。沖縄戦が問いかけるものは大きい。
    ◇

 きたむら・つよし 早稲田大学 琉球・沖縄研究所客員准教授 73年生まれ。文化人類学。著書に『死者たちの戦後誌』など。

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