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大人って? 羽田圭介さんが選ぶ本

2016年01月10日

式典後、記念撮影をする新成人=宮崎市

■かっこ悪さは消えないけれど
 去年二九歳時に芥川賞という、純文学の書き手に与えられる新人賞を受賞した。世間への認知度の点でいえば純文学界隈ではこれより有名な文学賞もなく、特に本を普段読まない人ほど、“芥川賞受賞”の事実を褒め讃えてくれる。取材対応に追われ数ケ月が経つうちいつのまにか三〇歳の誕生日を迎えた。小説家として社会的になんとか認められる程度の地位を得、生物としても三〇歳という一つの節目の年齢を迎えたわけだが、実感はあまりない。高校生くらいの頃に想い描いていた三〇歳など大人もいいところだが、その当時の自分と今の自分はあまり変わっていない。大半のこと、特に他人の見方なんかは変わらないが、あの当時には持ち得なかった色々なことが新たに付与された、という感じなのだ。

■変化でなく追加
 一つは、社会的に自分を高めるための行為や人間関係等で、要領よくやれるようになった。二つ目は、他人の痛みを理解することができるようになった。そして最近は、自分が恵まれすぎていると感じたとき、それを他人に分け与えてあげたいと思うようになった。それらは“変化”ではなく自分に新しく追加されたもので、ベースとなる部分は、高校二年生くらいの頃から変わっていない。だから中高生の人たちは、自分の中の格好悪い部分が、大人になりさえすれば自然と消えると思っているのだとすれば、大間違いだ。
 吉村萬壱の短編集『虚ろまんてぃっく』に登場するどの登場人物たちも、例外なく変なことにこだわり妙な理屈をもっている。なかでも、初老以降の男性人物の描き方が見事だ。初老以降の人間でも行動原理自体は子供と変わらないが、それが複雑化し、他人からだけでなく本人からしてもその単純な行動原理の絡まり具合が見えなくなっているだけだとよくわかる。
 つまり、子供と大人は地続きなわけだ。社会的なしきたりとかは自然と知ってゆくものではなく、能動的に知ろうとしなければ知ることはできない。かといって、社会の側からおしきせられる“しきたり”を、最初から知っているふうにふるまわなくてもいい。長嶋有『佐渡の三人』では、主人公〈私〉の「おばちゃん」(大叔父の奥さん)が亡くなり、〈私〉と弟、父の三人で、佐渡にある一族の墓へお骨を納めに行くところから物語が始まる。弟は定職についてもいないし、父も年齢のわりに儀式めいたことには疎く、納骨の過程をカメラで撮ったりと現代的だ。行動だけ見れば、誰が大人っぽいかなどよくわからない。それはこの作品の中で、ともすれば抽象的な概念としては重くなりがちな人の死さえも、その認知の仕方がひどく具体的だからだ。長嶋作品はすべてがそうで、あらゆる事象の認知に関し、具体性から外れることはない。そしてその視点は、現実世界を生きる僕らのものの見方を少し成長させてくれる。

■わかりあう快楽
 最後にすすめるのは、ドストエフスキー『悪霊』だ。この古典ロシア文学は読んでいて辛(つら)かったが、読んでいた時の感触が未(いま)だに残っている。読書経験を通じ、他者とわかりあえた、からだ。一世紀以上前に異国で書かれた小説は、日本の同時代的な小説とは空気感や価値観が全然違う。他者とわかりあえるということは、人間にとって本質的な快楽なのだ。価値観の異なる人とわかりあえなければ、大人にはなれない。
    ◇
はだ・けいすけ 作家 85年、東京都生まれ。2003年「黒冷水」で文芸賞。15年「スクラップ・アンド・ビルド」で芥川賞。

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