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原節子の美 横尾忠則さんが選ぶ本

2016年01月17日

横尾忠則画「See You Again」2002年

■自然体の自分を理想とした
 原節子の比類なき美しさは一体どこからやってくるのだろうか、と僕はいつも夢想していた。彼女をこの世の人と思えば思うほど人の世から遠ざかっていく。といって非現実的な天上に属する超絶的な女神のような存在でもない。小津安二郎の映画でごく一般的な庶民を演じ、人間の様々な属性を持った女性だ。にもかかわらず原節子は僕の中では特別の存在である。
 原節子の美しさに関して佐藤忠男は「純潔さ、まじめさ、健気(けなげ)さ、気高さ、やさしさ」と『永遠のマドンナ 原節子のすべて』でさらりと、しかしズバリその本質を語る。確かに彼女ほど自己に忠実に生き、「自然体」であり続けた人は珍しい。彼女は「まず読書、つぎが泣くこと、そのつぎがビール、それから怠けること」が好きで、「風邪ひけばハナもでる。寝不足なら目ヤニもでる」と千葉伸夫『原節子伝説』で語っている(同『原節子 伝説の女優』平凡社ライブラリー・1404円も参照)。これらは一見、グレタ・ガルボと並び称された美女の言葉と結びつかない。

■「妹の力」が宿る
 かつて家が近かった黒澤明さんをしばしば訪ね、原節子の話を何度もしてもらった。黒澤さんは「節ちゃん」と呼んで懐かしそうに目を細め、まるで昨日会ったように話された。だが、僕には話の中の彼女はもはやこの世の人ではない、すでに幽明境に行ってしまった人のように伝わってくるのだった。いまここで同じ空気を吸っている実感が乏しいのだ。それは引退後の沈黙の時間が長過ぎたせいか。
 そのうち、原節子は僕の中で非現実な人となってしまった。1990年代から彼女を自作の主題にするようになったが、それが単なるオマージュではなく「鎮魂画」、彼女の魂への奉納として描いている自分に気づいた。原節子は映画「生命の冠」で妹の役を演じた。前出の佐藤は柳田国男の「妹の力」を引き、それこそが「巫女(みこ)のような霊的な力を発揮」するというが、僕も原節子の美の表象の背後に彼女の現実感と表裏一体の未知の力が宿っていたように思う。
 原節子(虚像)は本名の会田昌江(実像)とどこかで重なり合い、複合化され、会田昌江が作られた原節子になり切れなくなったのではないだろうか。
 人前で演技するには羞恥(しゅうち)心が強く、貴田庄は「原節子という芸名には、原自身の意志が入っていません」と『原節子 わたしを語る』で語る。原節子は常に「ほんとに人間の美しさを身につけたい」(千葉、前掲書)と望み、わがままで嫌なものは嫌だと言い、欲得を捨てたごく当たり前の人間であることを理想としていた。「キャメラが廻(まわ)りだすと、“ああ、月給をかえしてもいいから、この場所から逃げだしたいわ”という一念にとりつかれた」(貴田、前掲書)

■魂の素顔が表出
 そんな原節子を僕は最も敬愛する。彼女の何ものにも縛られない自由な姿に憧れるのだ。彼女のそのような性格と美しさは相いれないように思われるが、自己に忠実であろうとする彼女の内面がそのまま容姿に反映するのは当然だと思う。原節子の美は肉体の美というより、魂の素顔が表出した美である。
 しかし原節子の心は泣いている。「何が一番悲しいって、それは愛情を与える人がいない」(千葉、前掲書)と。彼女の気持ちが求める対象と魂の求める対象とは別のものだ。魂は魂の親和性を求める。黒澤映画「白痴」で演じた娼婦(しょうふ)那須妙子(ナスターシャ)の中に、原節子の謎を解くヒントがありそうだ。
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よこお・ただのり 美術家 36年、兵庫県生まれ。著書に『全Y字路』『言葉を離れる』など。

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