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野坂昭如の世界 水口義朗さんが選ぶ本

2016年02月14日

作家の野坂昭如さん

■原点は戦争、無力感と罪悪感
 2015年12月9日、野坂昭如は足かけ13年に及ぶ脳梗塞(こうそく)の治療中も、妻暘(よう)子さんによる口述筆記で「終末の思想」を発信しつづけ、85歳で身罷(みまか)った。一般にはアニメ映画化された『火垂(ほた)るの墓』の原作者として、あるいは洋酒のCM「ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか」で山高帽、タキシード姿で踊るダンディー中年男として記憶されている。
 作家としての原点は『火垂るの墓』に見いだせる。1945年9月21日、国鉄三宮駅構内の場面から始まる、空襲で焼け出された中学3年生の清太と、4歳の妹節子の物語。清太は妹を餓死させ、やせ細った屍体(したい)を枯れ木で焼く。骨のかけらをドロップの缶に入れ、腹巻きにしまうが、その兄も命を落とす。
 野坂自身の戦争体験は『ひとでなし』(中公文庫、品切れ)に詳しい。6月5日の神戸大空襲。野坂は燃えさかるわが家にむけて何度か両親を呼んだだけで、一目散に逃げた。小説とちがって一家全滅ではなく、養父は行方不明、養母は大火傷(やけど)、祖母は疎開先で生存。妹恵子は、世話しているうちに日々衰弱し、泣き声さえ出なくなって死ぬ。1歳4カ月の命だった。
 『火垂るの墓』は1968年、直木賞受賞作となった。好評であればあるほど、胸の奥底には滓(おり)のごとくウツウツたるものが増殖した。自身を妹思いの兄のごとく描いたことへのやましさ、うしろめたさ。それが、「焼跡(やけあと)闇市派」と自らを規定した野坂昭如の文学世界の底流に、常にはりついている。

■AVの舞台裏話
 1950年代、ラジオからテレビへと続いたマスコミ戦国時代。作家になる前の野坂は作曲家・三木鶏郎(とりろう)の事務所でCMソングの作詞、タレント、台本構成、マネージャーと闇雲に働いたが、脚光を浴びるのは常に同じ事務所の才人、永六輔のほうだった。
 七転八倒、刀折れ矢つきて、必死の思いで活路を求めたのが活字の世界だった。「週刊コウロン」誌のコラム欄執筆にありついたが、すぐに休刊。しばらくして、まもなく休刊という別の雑誌に「奇抜な、面白い読み物なら」というチャンスがめぐってきた。
 それが野坂の小説家デビュー作『エロ事師たち』となった。いまでいうAV業者の舞台裏話。当人は小説を書けるなどとは思ってもいなかったが、400字詰め原稿用紙で120枚書いた。
 発表直後の反響は梨のつぶてだったが、やがて吉行淳之介が注目作品として取り上げ、さらに三島由紀夫が「世にもすさまじい小説」と激賞した。野坂も担当編集者も、狐(キツネ)につままれた面持ちだった。

■死者たちの怨念
 自身も好きだと認めていた名品は『骨餓身峠死人葛(ほねがみとうげほとけかずら)』だ。野坂の世界は、今を盛りとときめき栄えるものには関心が向かわない。廃鉱地帯など滅びたものに、動かしがたい人間の姿をうかがう。
 廃坑となっている九州の炭坑。60年代の炭鉱業の斜陽化を目撃する中で、そこで死んだ者の怨念、怨霊を、空襲で焦土と化した市街と重ね合わせた。
 無辜(むこ)の民が飢え、むごい死を迎えることへの憤り。少年時代に妹恵子をわが手の中で餓死させた無力感、空虚感、罪悪感。終末と破滅への警告を、一生発信しつづけた昭和最後の文士だった。人さわがせのパフォーマンスは、「生き残れ少年少女!」という応援歌でもあった。
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 みずぐち・よしろう 文芸評論家 34年生まれ。中央公論社(当時)の編集者として野坂昭如を担当。「婦人公論」元編集長。

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