文豪の朗読

井伏鱒二「屋根の上のサワン」 堀江敏幸が聴く

2017年01月22日

井伏鱒二(1898~1993)=66年10月、東京・杉並の自宅

■魂のバリアフリーの温(あった)かみ

 沼地の近くを散歩していた語り手の「私」は、傷ついた雁(がん)を見つけて家に連れ帰り、手当をしてやる。苦労の甲斐(かい)あって元気になると、今度は逃げないように両方の翼の風切羽根を切り、サワンという名をつけて庭で放し飼いにすることにした。
 かつて「屋根の上のサワン」という表題を目にしたとき、これは醜いアヒルの子のもじりで、主人公はスワンになりそこねたかわいそうな鳥なのかなと思ったのだが、サワンとはインドの「月」を意味する言葉で、明るい感じだから雁の名にもらったのだと作者自身が明かしていることを、後に知らされた。明るいサワンと、屈託している語り手の対比。彼が何にくじけているのかは説明されない。サワンとの出会いと別れによって、心の染みが描き出されるだけだ。
 回復して屋根に飛び乗り、夜空にむかって鳴きつづけていたサワンは、頼むから逃げたりしないでくれと訴える恩人を置いて姿を消す。支えていたはずの雁に支えられていた「私」は、この先どうなるのか。
 井伏鱒二の朗読は、そんなことは作中の「私」が一人で解決すべき問題であってこちらがとやかく言う話ではないという風情の、屈託を通り越していっそ平板を究めたものでありながら、どこか飄々(ひょうひょう)としてやさしい。感嘆符つきの台詞(せりふ)を地の文とおなじ抑揚で読む、魂のバリアフリー。「温かみ」を「あったかみ」と読むあたりでは、なぜかお燗(かん)の匂いさえただよう。
 朗読に使われているのは、一九六六年の録音より前の版である。周知のように、井伏鱒二は一九八五年の『自選全集』で、自作に大きく手を加えた。「山椒魚」の改変は当時大きな話題となったが、「屋根の上のサワン」にも異同が見られる。作家は傷ついた雁の翼だけでなく、「自らの血潮でうるおし」た言葉に、小刀ではなくペンで手術を施したのだった。
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 1960年代に発表された朝日新聞が所蔵する文豪たちの自作の朗読を、識者が聴き、作品の魅力とともに読み解きます。
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■聴いてみる「朝デジ 文豪の朗読」
 朝日新聞デジタルでは、本欄で取り上げた文豪が朗読する肉声の一部を編集して、ゆかりの画像と共に紹介しています。元になった「月刊朝日ソノラマ」は、朗読やニュースなどを収録したソノシート付きの雑誌です。録音にまつわるエピソードも紹介しています。特集ページは次の通りです。
 http://www.asahi.com/culture/art/bungo-roudoku/

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