辻井喬「わたつみ 敗戦五十年に」 島田雅彦が聴く

2017年02月12日

辻井喬(1927~2013)=94年撮影

■戦争の記憶、手探りする言葉

 昭和二(1927)年生まれの辻井喬は三島由紀夫とほぼ同世代で、高校生で敗戦を迎えており、戦争と占領のさなかで青春期を過ごしたため、かなり屈折した自我を抱え込んだ。戦後の焼跡(やけあと)は新しい政治、文化の揺籃(ゆりかご)だったが、辻井喬は自然と政治活動と文学に向かった。西武百貨店の経営者として頭角を現すのは高度成長期だが、焼跡で磨かれた左翼の知性を発揮し、池袋や渋谷の街を一変させた。
 「わたつみ」は敗戦五十年にちなんで発表された詩であるが、辻井は「にんげんに本当の記憶はあるのだろうか」と問いかけ、人々が忘れまいとする、あるいは忘れようとする戦争の記憶という曖昧(あいまい)なものをしきりに何かに喩(たと)えようと手探りしている。
 詩集のあとがきに辻井は自身のことを「すべての異議申し立てが虚(むな)しく響くような世の中」で「生き残ったことで死んだ男」という。そして、「詩は敗れたのだろうか。しかし、敗れなかった詩がいままであったのか。それに、敗れるとはどういうことなのだろう」と問いかける辻井は、戦後五十年の時間は戦争や復興、成長の意味を無惨(むざん)に変え、限りなく無意味なものにしてしまうことを痛感していただろう。それからさらに二十年経ち、平然と二度目の敗戦を目指しているかのようなこの国では施政者や経営者の虚言ばかりがまかり通っている。詩は、文学は、嬉々(きき)として、没落の道筋を辿(たど)る人々を引き止(と)める力を依然、保っているか、いささか心もとないが、憂国を唱え、仮想の敵に向かって毒づくポピュリストたちの饒舌(じょうぜつ)よりは百倍ましである。
 辻井の語り口は穏やかで、謙虚で若々しいその人柄にふさわしい声をしている。私はこの朗読を生で聞いていたし、生前、飲みに連れて行ってもらったりもした。人の心の闇や秘めたる欲望をさんざん見てきたはずなのに、常ににこやかで礼儀正しく、時々、しれっと誰もが知る権力者の裏の顔を暴いてくれたりした。生きていれば、今年で九十歳。生涯一度も老人になったことのない人だった。
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 今回は、日本近代文学館の「第21回 声のライブラリー」(00年5月13日、石橋財団助成)の音声を元にしています。
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■聴いてみる「朝デジ 文豪の朗読」
 朝日新聞デジタルでは、本欄で取り上げた文豪が朗読する肉声の一部を編集して、ゆかりの画像と共に紹介しています。元になった「月刊朝日ソノラマ」は、朗読やニュースなどを収録したソノシート付きの雑誌です。録音にまつわるエピソードも紹介しています。特集ページは次の通りです。
 http://www.asahi.com/culture/art/bungo-roudoku/

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