文豪の朗読

辻邦生「安土往還記」 本郷和人が聴く

2017年03月19日

辻邦生(1925~1999)=91年撮影 

■生の燃焼と孤独な魂の交感

 夏の一夜、城下の人々は大殿(シニョーレ)の命により、すべての灯(あか)りを消し、息を潜めていた。やがて烽火(のろし)が上がると、一斉に火が掲げられ、城郭の全貌(ぜんぼう)が照らし出された。同時に黒装束の騎馬武者たちがたいまつを点(とも)し、竜がうねるように宣教師館へと走り寄る。その中には、日本を離れる巡察使ヴァリニャーノに別れを告げる、大殿自身の姿があった。
 暗闇の漆黒と瞬時に燃え上がる炎の赤。あたかも戦国の世を象徴するかのような鮮烈なコントラストの中を疾走する大殿と、己の前半生を厳しく否定し続けることによって前に進もうとする宗教者ヴァリニャーノ。そしてこの場面こそを本作の精髄として撰(えら)びだし、静かに、しかし深く朗読する小説家。なんと美しいトライアングルなのだろう。私はしばし言葉を失った。
 小説家が解釈する大殿は、明確な秩序が失われた殺伐たる乱世にあって、合理主義の権化であった。理にかなった考察と行動をひたすら追い求め、一つの目的を成就するためには自身の欲望や哀憐(あいれん)などの恣意(しい)の情を容赦なく切りすて、激しく燃焼して生を紡ぐ人であった。周囲は彼を理解できなかった。だから万里の波濤(はとう)を越えてやって来たヴァリニャーノの内に己と同じ孤独な魂を感得したとき、大殿はこの宗教者にたぐいまれなる友情を覚えたのだ。
 人々に憎悪され、恐れられても、大殿は怯(ひる)まない。ただ前へとひたむきに駆けてゆく。小説家・辻邦生が造形する彼の生き様は、歴史的存在として結実すると同時に、現代人に苛烈(かれつ)な問いを投げかける。神のいない世に、あなたはいかなる精神を以(もっ)て生きるのか、と。小説家の朗読の声を聞きながら彼のその企(たくら)みに思いを馳(は)せ、歴史研究者たる私は歯がみをした。時を軸として人間を掘り下げる。かくもみごとな業は、私たちの到底及ぶところではない。
 大殿(シニョーレ)の名は信長。安土城を築き、戦国に終止符をうった、織田信長である。

 ◇今回は、日本近代文学館の「第12回 声のライブラリー」(1998年2月14日、石橋財団助成)の音声を元にしています。

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