1. HOME
  2. コラム
  3. ひもとく
  4. 番外編 読書は必要? あなたの「世界」を変えるかも

番外編 読書は必要? あなたの「世界」を変えるかも

待ちかねていた本を開く人たち。村上春樹氏の新刊を発売直後に読む催しで=2月、東京・三省堂書店神保町本店

 「読書はしないといけないの?」。こんな読者の投稿が本紙「声」欄に掲載されました。そもそも読書とは? そして言葉とは? 歌人の穂村弘さんが考えを寄せてくれました。
    ◇
 知り合いの青年に「本は読まないの?」と尋ねたら「ほむらさんはダンスしないんですか?」と聞き返されたことがあります。読書は人生の必修科目でダンスは選択科目、というのはもう古い感覚らしい。
 飲み会における「とりあえずビールで乾杯」やライフイベントとしての結婚が必修科目ではなくなったように、すべてが自由意思による選択科目という世界では、読書だけが特別ということもなくなるんだろう。
 そう思いながらも、「読書は楽器やスポーツと同じように趣味の範囲であり、読んでも読まなくても構わないのではないか」と改めて問われると、「賛成です」と答えることに不安と躊躇(ためら)いを覚えます。
 それはどうしてなのか、考えてみました。一つ思い当たったのは、読書という行為は言葉と密接に関わっている、ということです。
 読書が「楽器やスポーツと同じように趣味の範囲」というのは、或(ある)いはその通りなのかもしれません。「楽器」がなくても「スポーツ」がなくても、そして読書がなくても、生きてゆくことはできる。その意味では確かにいずれも「趣味の範囲」と云(い)えそうです。

生きてゆけるが

 でも、言葉そのものはどうなんだろう。それも「趣味の範囲」なのか。いや、他者とのコミュニケーションに必要というだけではなくて、誰にも会わず一言も話さない日でも、私たちは心の中で無意識に言葉を使っています。それなくして生きることはできない、と思えるほどに。
 映画などで、親から出生の秘密(「実はお前は私がお腹〈なか〉を痛めた子じゃないの」とか「お前たちは本当は血を分けた兄妹なんだ」とか)を告げられた主人公がショックを受ける、というシーンを見ることがあります。
 それまで信じていた世界が親の言葉によって覆ったのです。いや、正確にいうと覆ったのは世界ではない。何故(なぜ)なら、親が子供に出生の事実を語る前と後で血の繋(つな)がりやDNAが変化したわけではないから。その意味では、物理次元の世界は何一つ変わってはいない。つまり、親の言葉で覆ったのは世界そのものではなく、主人公の心の中の世界像ということになります。

内なる言葉の塊

 ならば、私たちが一つの共通の世界に生きているというのは実は錯覚で、本当は一人一人の内なる世界像を生きているに過ぎないんじゃないか。そして、どうやら言葉はそのことに深く関わっているらしい。
 私がイメージしたのは蜘蛛(くも)と糸と巣の関係です。蜘蛛が自分の糸だけで編んだ巣の上で生きるように、我々も普段は意識しないけど、自らの内なる言葉(糸)が作り出した世界像(巣)の上で生きているんじゃないか。つまり、人間は言葉の介在無しに世界そのものを直(じか)に生きることはできないんじゃないか、と。
 逆に云えば、言葉によって世界像は書き換えられることになる。エスカレーターに立っている時、その横をガンガンと大きな足音を立てて降りてゆく女性がいます。その度に苛々(いらいら)していたら、或る時、知人に「サンダルの構造上ああなっちゃう、カスタネットガールという種族なんです」と教えられました。すると、不思議なことに、彼女たちに出会っても「あ、カスタネットガール」と、むしろ面白く感じるようになりました。私が忍耐強くなったわけではなく、一つの言葉を知ったことによって世界像が変化したのです。
 この例からも分かるように、読書という行為だけが内なる言葉を養うわけではない。でも、本が言葉の、すなわち他者の世界像の塊であることもまた確かです。私が読書に特別な意味を見出(みいだ)したくなるのはそのためではないか、と考えました朝日新聞2017年4月16日掲載