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世界の不可解、直視する勇気 ジョン・エリス・マクタガート「時間の非実在性」

大澤真幸が読む

 時間は、哲学の中心テーマである。20世紀の初頭に書かれたマクタガートのこの論文は、時間の哲学の古典中の古典。訳者永井均が本文より長い注釈を付けた邦訳版も2月に出た。
 マクタガートは、本書で三つのことを述べている。第一に、出来事を時間の上に位置づける仕方は二種類ある。「より前、より後」と「過去、現在、未来」。後者がA系列、前者がB系列と呼ばれる。「7月8日が先で、9日は次の日」はB、「昨日は8日、今日は9日、明日は10日」はA。
 第二に、時間にとってより大事なのはA系列である。この主張に反対する哲学者もいるが、私はマクタガートに賛成だ。カレンダーを見るとよい。日付の順番(B)がすぐに目に入るが、最も気になることは「今日は何日か」(A)ではないか。
 以上を前提に、マクタガートが導きだした第三の論点が度肝を抜く。時間にとってA系列が不可欠なら、時間は実在しない、というのだ。「どういう意味だ、わかるように説明しろ」と言いたくなるだろうが、ムリである。マクタガートにもわからないからだ。彼は、時間は謎だということを示したのである。
 例えば「黒い白馬」は実在しない。矛盾しているからだ。マクタガートは、A系列に、これと同じような矛盾があることを証明してみせる。この証明が成功しているか、哲学者の間でも賛否が分かれる。私はここでもマクタガートを支持する。
 それにしても、黒い白馬が実在しないという主張の意味はわかる。そういうものが歩いているのを決して見ることがないという意味だ。しかし、時間が実在しないとはどういうことか。誰にもわからない。
 普通、知性は理解力だと思われているが、そうではない。知性が与えてくれるのは、世界の不可解さを直視する勇気である。この本は知性を鍛えてくれる。
 ああ、それにしても、私たちの生活をかくも厳しく支配している時間なるものが実在せず、幻影だとしたら?=朝日新聞2017年7月9日掲載