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私たちの闘い 自分で動く:1 踊れ、あばれろ、汗ダラッダラ

 ドンドンバシバシ、ピーヒョロロ。盆踊りの季節がやってきた。音につられてのぞきにいけば、ジイさんもバアさんもギャルもサラリーマンも、みんな汗ダラッダラ、我を忘れておどってる。いつもイバってるやつだって、頭はガクガク、手足はグニャッグニャ。ひととして、はずかしい格好だ。でも自信たっぷりで、ちええっ、ちええっとさけんでる。こいつは猿か、バカなのか。そうおもってる自分も、気づけば輪にはいっている。ちええっ、ちええっ。オレも猿だ、バカなんだ。
 ふだん、わたしたちは仕事でもプライベートでも自分はつかえるやつだ、よくみせなきゃとおもわされている。SNSでいいね、いいね。できなければクズあつかい。でもひとたびおどっちまえば、そんなのどうでもよくなっている。むしろはずかしい、なんの役にもたたない身体のうごきに夢中になってしまうのだ。たまんねえ。無能な身体に、小躍りして酔いしれる。鎌倉時代、盆踊りの起源、踊り念仏をひろめた一遍は、それが仏になることなんだといっている(『一遍上人語録』)。現世の価値にしばられない、なんにもとらわれない身体を手にしてるのだから。この世はクソだ。他人の評価はどうでもいいね、好きなことしかできやしない。クズの本懐、仏である。

悔しい。きめた

 さて最近、わたしは丹野未雪にもおなじものをかんじる(『あたらしい無職』)。かの女は三十九歳ではじめて正社員になったものの、すぐにやめてしまう。なぜかというと仕事自体がクソだからだ。フリーの仕事をしてきて、おまえはつかえないといわれながらもがんばってスキルを身につけて、やっと正社員になったとおもったら、まわりの男どもがまったくつかえない。それでおもうのだ。おまえらクズだぞと。ずっと、そんなことをいう社畜はクソなんだとおもってきたのに、自分もおなじになっている。くやしい。で、きめた。仕事自体がクソなんだ、やめてやらあと。仏である、クズである。
 そんなかの女に、社会はきびしい。仕事はみつからないし、カネがないからと雇用保険の申請にいけば、自己都合退職は正当な理由にならないんだ、病気かケガでもしてればねとか、意味不明な難癖をつけてくる。ちくしょう。でも、それでよくわかったのは、社会はクソだが、友だちはやさしいということだ。かの女がカネにこまっていれば、おごってくれるひともいれば、どんなに生活が苦しくても、カネを貸してくれるひとだっている。仏が仏をよんでいく。

もっとバカに

 もちろん、そんな社会に一泡ふかせてやりたいとおもうひともいるだろう。だったら大正時代のアナキスト、大杉栄がおすすめだ(『大杉栄評論集』)。かれはいう。もっとバカになれ、圧倒的にまちがえろと。自分や友だち、そこかしこの誰かがクズあつかいされたなら、会社でも役所でもかまうもんか、躊躇(ちゅうちょ)しないであばれてしまえ。ヤッチマエ、ヤッチマエ。あのイバりくさったやつらをヤッチマエと。仕事はもらえなくなるだろうし、パクられることだってあるだろう。なんの役にもたちやしない。こいつは猿か、バカなのか。無用の身体だ。でも、そうやってうごけた自分はもう役にたつとかたたないとか、そんなことは関係ない、なんにもとらわれない身体になっている。自由だ、仏だ。ドンドンバシバシ、ピーヒョロロ。我も我もとあばれだす。オレも猿だ、バカなんだ。あたらしい無職がおどってる。この世はクソだ、おわってる。他人の評価はどうでもいいね、好きなことしかできやしない。おまえちゃんとはたらけよ? 仏は無職だ、このやろう。心がさけびたがっているんだ。ちええっ。やっちまいな=朝日新聞2017年8月6日掲載

5回連続で気鋭の筆者らが生き方について考察します。