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カズオ・イシグロ 忘れてはならない記憶の物語

ノーベル文学賞に選ばれ、記者会見するカズオ・イシグロさん=5日、ロンドン、石合力撮影

 10月5日午後8時。トークショーをしている最中、フロアの参加者が教えてくれた。思わずガッツポーズ。カズオ・イシグロは、村上春樹よりも先にノーベル賞をとるかもしれない。そう予想していた私にとって今回の受賞はたいへん喜ばしいことながら、意外なことではなかった。透明で、静かな悲しみで満たされたイシグロの文体には確かな世界性がある。
 イシグロ作品はディストピア小説、予言小説などと評されることが多いが、私は必ずしもそうは思わない。私が一番好きな作品『わたしを離さないで』は、英国の田舎にある寄宿舎が舞台。子どもたちは優しい先生に見守られながら、規則正しい生活を送っているが、何かが普通ではない。訪問してくる肉親はおらず、生徒は将来の夢を語り合うこともない。やがてその残酷な謎が、ピンセットで薄い皮を一枚一枚剝いでいくような精緻(せいち)さで明らかになっていくが、ミステリー解きがこの物語の核心ではない。先生の言葉。球技の試合。敷地内の小道や窪地(くぼち)、アヒルの泳ぐ池。生徒一人一人がベッドの下に置いていた宝箱のこと。そして親友ルースや心を寄せていたトミーのこと。すべては、主人公、キャシー・Hの追憶として語られる。

重要な通奏低音

 イシグロ作品の通奏低音は「記憶」である。極限的な状況に置かれた誰かであれ、ごく普通に暮らす私であれ、その心を励まし、慰撫(いぶ)し、あるいは乱し、揺るがせるのは、過去の鮮やかで細やかな記憶である。そして記憶は常に変容する。NHKの番組で、イシグロと対談したとき、生物としての人間は絶え間のない合成と分解の流転の中にあり、それゆえ私たちの物質的基盤は確かなものではない、という動的平衡の生命観について私が語ると、彼はがぜん興味を示し、だからこそ「記憶は死に対する部分的な勝利である」と言った(この対談は『動的平衡ダイアローグ』に収録)。
 イシグロの小説において、記憶の問題がいかに重要な通奏低音になっているかは彼の長編デビュー作と最新作を読めばわかる。『遠い山なみの光』では、戦後まもない頃の長崎の街の日常風景が、まるで小津映画を見るようなきめの細かさで淡々と描かれていく。
 これは、彼が5歳まで過ごした生まれ故郷の光景に他ならない。その後、不意に英国に移住させられた少年は、両親から、来年こそは日本に戻る、と言われ続けながら、ついぞ叶(かな)うことがなかった。おそらくこの記憶が彼を支え続けたのだ。逆に、彼は心象風景が損なわれることを恐れて、長いあいだ、日本を再訪することを避けていたという。そして記憶が擦り切れる前に小説を書こうと決心した。

掘り返すべきか

 寡作のイシグロの最新作は『忘れられた巨人』。舞台は中世。鬼や竜が出没する薄暗く、荒涼とした世界。辛辣(しんらつ)で有名な書評家ミチコ・カクタニは、イシグロの持ち味が生かされていない奇妙なできそこないのファンタジー、とニューヨーク・タイムズで酷評した。でもそれには全く同意できない。彼は新しい角度から「記憶」の問題に挑んだのだ。個人の記憶ではなく、共同幻想としての集合的な記憶。年老いた夫婦は、息子を探す旅に出る。しかし二人は憶(おぼ)えていることが違う。あるいは同じことを違って記憶している。それでも二人は夫婦を続けている。いやそれゆえに。息子の存在すら捏造(ねつぞう)かもしれない。原題は、“The Buried Giant” 埋もれているのは社会的な記憶だ。私たちはそれを掘り返すべきなのか。掘り起こした巨人をどのように背負うべきなのか。忘れたいけれど、忘れてはならない記憶。イシグロの受賞には優れて現代的な意味がある=朝日新聞2017年10月15日掲載