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残像に口紅を [著]筒井康隆

2018年02月04日

■喪失が生む小説の可能性

 30年前、筒井康隆さんは本書と名作『文学部唯野教授』を同時期に連載していた。2作品に共通する濃密さを思うと、想像するだけで気が遠くなる。昨年11月に都内の筒井さんの邸宅で対談した際、そのことについて触れると「胃に二つ穴が開いて入院したね。1作品につき一つや」と笑い飛ばした。
 実際、本書には胃に穴が開くほどのルールがある。主人公は小説家の佐治勝夫で、自分が小説の登場人物だと理解している「メタフィクション」の設定。物語が進むごとに音(おん)が消えていくのだが、例えば「あ」がなくなれば本文中に「あ」の音が使えなくなる。これは「リポグラム」という手法の一つで、海外ではジョルジュ・ペレックの『煙滅』が有名。
 だが、本書の凄(すご)みは「なくなった音を含むもの」も消滅してしまうところにある。最初に選ばれたのは「あ」なのだが、すぐに消えたのがご存知(ぞんじ)「朝日新聞」。夫を「あなた」と言えない佐治の妻は「もしもし」と話し掛け、「せ」なき後、編集者は作家を「先生」とは呼べない。この言い換えに戸惑う佐治の様子も面白いが、一方で喪失を悲しむ表現も実に巧みだ。
 佐治の3人の娘たちは、1人ずつこの世界からいなくなる。まだ高校生の三女が消えたとき、佐治は微(かす)かな記憶を頼りに思う。「その残像に薄化粧を施し、唇に紅をさしてやろう」。そうして涙する父親の姿は、この物語の核心を突く象徴的なシーンだ。
 書棚から本が消え、番号を失って電話もかけられない。そうして少しずつ閉ざされる世界で、佐治は孤独を味わう。しかし、失ったからこそ得るものもある。佐治は「新しい文体」を手に入れ、妻がいなくなったことで新たな恋にも目覚める。
 31の音を失った時点での長い講演のシーンは圧巻。途中から作者と並走するような感覚に陥り、読後の達成感は大きい。小説の可能性を追求し続ける筒井さんの執念が生んだ物語だ。
 塩田武士(小説家)
     ◇
 中公文庫・802円=18刷19万4千部 95年4月刊行。テレビで人気芸人カズレーザーが紹介してブレーク。単行本から28年後の10万部重版に著者もブログで「びっくりしている」。

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