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父親エッセー 自分の変節ぶり、楽しく発見

加瀬健太郎著『お父さん、だいじょうぶ? 日記』から。写真家の父親が関西弁で日常をつづる

 数年前、男友達との酒席で「今度、父親エッセーの連載を始める」と明かすと、全員から「それはやめたほうが良い」とたしなめられた。他人の子供の話など絶対に面白くないというのだ。だが反対されたことで私の中で挑戦心がわいた。お前ら馬鹿か。子供ができたら毎日が発見の連続なのだから面白くないわけがないだろう、と。

固定観念を逃れ

 父親による育児本の刊行が近年目立つ。日本の体育会系的な男社会の風土を考えると、俺の子供は可愛いんだと父親が公言すること自体、一昔前までは恥ずかしいことだった。そういう奴(やつ)は軟弱だと見なされた。しかし世の中は変化した。イクメンが尊ばれ、男の育児休業が導入されるうち、育児をする父親への視線も変容している。今では父親が子供とのドタバタをつぶやくと「いいね」がたくさんつくし、むしろ「いいね」が欲しいために子供のことをつぶやくほどだ。俺たち父親族はようやく古めかしい固定観念から解放され、子を持つ喜びを率直に語る自由を手に入れたのである。
 父親は懐胎、出産、授乳という生物学的プロセスを経験できないため、宿命的に母親とは異なる視点で子供を見つめる。そのせいか総じて男たちは子供ができると狼狽(うろた)え、変節することが多く、それを反映して父親育児本も子供より自分の変節ぶりを語りたがる傾向が強い。
 例えば仏文学者である野崎歓の『赤ちゃん教育』。同窓会で、お前は子供がいないのによく文学なんかやれるなと揶揄(やゆ)された野崎は、逆に「子供がいないと文学がわからないというのはいったいどういう文学観なのだろうか」と反発する。ところがいざ子供ができると世界は一変、これまで親しんだ文豪の言葉の解釈は次々に更新され、挙句(あげく)の果てには「赤ん坊や幼児が可愛いのはあたり前」「とはいえ、昨今の文学や思想はその事実をあまりにも軽んじてきたのではないでしょうか」(文庫版あとがき)と言い切る始末で、あんたの文学観こそ何だったんだとツッコミたくなる。男にとって子供ができて自分が変わる過程は清々(すがすが)しいほど面白く、本書からは当人がそれを楽しんでいることがひしひしと伝わってくるのだ。

熱く語りたい俺

 一方、加瀬健太郎『お父さん、だいじょうぶ? 日記』(リトルモア・1728円)は家族への慈愛に満ちた本だ。子供中心の生活をユーモアたっぷりに切り取った関西弁の文章と写真が、温かい。この本を読めば父親の脳内でも母親に負けないぐらいのオキシトシンが分泌されているのが分かってもらえるはずだ。
 池谷(いけがや)裕二『パパは脳研究者』は子供の発育過程を示しつつ、それが脳科学的にどのような段階にあるのかを説明する実用書であるが、むしろ伝わってくるのは娘の成長を語りたくて仕方ない著者の親バカぶりである。異色なのは東浩紀・宮台真司による対談『父として考える』だろうか。子供をもつことで新たに得た視点を基軸にこれからの社会を熱く語る2人の姿に、私は子供が親に対して与える影響力の凄(すさ)まじさを見た気がした。
 文学、脳科学、あるべき社会。父親は手を替え品を替え子供を語る。ただ心情としては、とにかく子供のことを語りたいという一点につきる。親になった瞬間に誰しもが感じる、子供がいなかった今までの人生は一体何だったのかというあの感覚。他人にどう思われようと俺の娘は確実に美人だし、俺の人生はVer.2.0に突入したのだと、俺たち父親は世界の中心でゴリラのように叫びたいのだ。これはもう理屈ではなく生物学的本能にもとづく行動だと考えるしかない。子を持つ喜びを言葉にする。それは人間の動物的な部分に根差す、表現することの最も原初的な形態なのである=朝日新聞2018年4月21日掲載