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「花の国・虫の国―熊田千佳慕の理科系美術絵本」書評 虫になりきって見た静かな世界

評者: 後藤正治 / 朝⽇新聞掲載:2011年05月29日
複眼で見よ 著者:本田 靖春 出版社:河出書房新社 ジャンル:社会・時事・政治・行政

ISBN: 9784309020365
発売⽇:
サイズ: 20cm/315p

花の国・虫の国―熊田千佳慕の理科系美術絵本 [著]熊田千佳慕

 熊田千佳慕の絵には音がない。千佳慕の虫には影がない。千佳慕のスケッチには色がない。少なくとも私たちが知るような風の声や光の明暗や澄んだ空の青さは、そこにはない。それでも私たちは千佳慕の花と虫の国に吸い込まれる。その静けさ、影のない地面、色のない世界に引き入れられる。なぜだろうか。
 生物学者ユクスキュルはかつてこういった。生物たちはそれぞれ独自の知覚と行動で自分の世界観を作り出している。だからそれを環境ではなく、環世界と呼ぼう。
 虫たちの眼(め)には光を集めるレンズがない。像を結ぶ網膜もない。しかし彼らは確かに光の動きを捉え、世界を感じている。千佳慕の絵がすばらしいのはこの紛れもない事実をいま一度、私に気づかせてくれるからだ。
 虫たちは、私たちとは全く異なった視線で見つめ合い、私たちが知らない音を聴き、それでいてこの世界の豊かさを存分に楽しんでいるのだ。それを千佳慕の絵は教えてくれる。
 でもなぜそんなことが千佳慕に可能だったのだろう。草むらにはいつくばって小さな虫たちを何時間も見つめる。何度も描きなおす。何日も描き続ける。虫を愛するあまり、虫の中に入り込み、虫になりきってしまった。千佳慕には虫が見ている環世界が見えたのだ。それはきっと孤高で、それでいてすがすがしい気分だったろう。
 虫の世界は、不思議なことに古来、革命家に愛されている。ファーブルを初めて訳したのは大杉栄だった。本書でも、ローザ・ルクセンブルグの手紙の一節が引用されている。そのあとに千佳慕の言葉が続く。
 自然は 美しいから 美しいのではなく 愛するからこそ 美しいのです。
 評・福岡伸一(青山学院大学教授・生物学)
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 求龍堂・1890円/くまだ・ちかぼ 1911〜2009年。細密画家。