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今日の宗教の諸相 [著]チャールズ・テイラー/神と仏の倫理思想 [著]吉村均

[評者]苅部直(東京大学教授)

[掲載]2009年08月09日

[ジャンル]人文

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■社会の変遷と信仰、どう理解すべきか
 
 今日、宗教の意義について正面から語るのはむずかしい。先進諸国ではどこでも、決まった信仰をもたない人の割合がいちじるしく増える他面で、突出した宗教集団の政治運動や、テロリズムとのかかわりが注目を集めている。この現象をどう理解すべきなのだろうか。
 カナダ、というより英語圏を代表する政治哲学者、チャールズ・テイラーの著書は、西洋社会は近代になって世俗化したとする、通常の理解を批判している。むしろそこで進んだのは、キリスト教信仰が教会の儀礼から解放され、個人の選択によるものに変わる動きであった。また、アメリカ合衆国に見られるように、本来は神が秩序を創(つく)ったとする信仰が、市民社会の紐帯(ちゅうたい)を支え続けてもいた。
 一九六〇年代以降、消費社会がめざましく発展すると、人々の関心は自身の世俗での幸福の追求と、「自分探し」に集中してゆく。それは一方では宗教からの離脱を生むが、同時にまた、ひたすら内面の経験に収斂(しゅうれん)する、新しい宗教意識も広まるようになった。テイラーは、アメリカの哲学者、ウィリアム・ジェイムズが、すでに二十世紀初頭にこの動きを見とおしていたとして、高く評価するのである。
 テイラーの本は、二〇〇〇年にウィーンで行った講演に基づいている。もし翌年の九・一一テロ事件のあとに構想していたら、諸宗教の相剋(そうこく)と共存といった問題にも、もっと踏みこんで議論していたかもしれない。そしてまた、日本社会については、どう考えればいいのか。倫理思想史家、吉村均の新著は、オウム真理教の犯罪によって受けた衝撃から出発しながら、日本の伝統思想における神道と仏教との関係に切りこんでゆく。
 古代と中世に展開した神仏習合は、異質な信仰をいいかげんに混ぜあわせたものでは決してなかった。在来の神の信仰は、人がふだん生きている狭い時空をこえ、すべてを見とおし包みこむような、新しい知を求めていた。仏教の側は、あらゆる生物を苦しみから解放する仏陀の知を得る前の段階として、一般人にむけた教説を必要としていた。二つの要請がたがいに補完しあう、筋道だった体系を、神仏習合はもともと備えていたのである。
 徳川時代における儒学の支配、さらに近代の神仏分離と仏教理解の西洋化は、そうした体系を打ち壊してしまった。しかし吉村は、近代にも柳田国男と折口信夫の民俗学が、文献としては残らない伝説や習俗の世界に、日本人の本来の信仰のありようを探ったことに、意義を見いだす。
 そしてまた、文字など読めないにもかかわらず、仏教の高度な知恵を体現した「妙好人(みょうこうにん)」たちが、庶民の世界には出現し続けたことに注目している。この細々とした系譜に基づいた、あらゆるものを共存させる倫理。その可能性にむけた賭けが、叙述の背後から顔をのぞかせているようである。
 〈評〉苅部直 東京大学教授・日本政治思想史
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 『今日の宗教の諸相』伊藤邦武ほか訳、岩波書店・1995円/Charles Taylor 31年生まれ。カナダの社会哲学・政治哲学・倫理学者。▽『神と仏の倫理思想』北樹出版・2520円/よしむら・ひとし 61年生まれ。財団法人東方研究会研究員。

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