書評・最新書評

不死細胞ヒーラ ヘンリエッタ・ラックスの永遠(とわ)なる人生 [著]レベッカ・スクルート

[評者]辻篤子(本社論説委員)

[掲載]2011年07月17日

[ジャンル]科学・生物

表紙画像

■細胞は誰のものか、「彼女」と家族追う

 「ヒーラ」という名前に全く覚えがなくても、私たちの誰もがその恩恵を被っていることはほぼ間違いない。
 ヒーラ細胞は、世界で初めて培養に成功したヒト細胞で、がんや肝炎、遺伝子の研究からインフルエンザの薬の開発まで、20世紀後半以降の生命科学と医学の飛躍的な進歩を支えてきた。
 本書は、その細胞をめぐる、科学と人と社会、とりわけ、人種や貧困などの根深い問題を抱えた米国社会の驚くべき物語である。
 そのエッセンスは、当時16歳だった著者の心をとらえた、地域短大の生物学の授業での教官の言葉に集約されるだろう。
 彼は「ヒーラ細胞は、過去100年に医学界で起きた最も重要な出来事の一つだ」といい、その名のもとになったヘンリエッタ・ラックスについてこう付け加えた。「彼女は黒人だった」「彼女のことは誰にもわからないんだ」
 著者が残された家族を探し当てて電話をかけたのは11年後、本書に結実したのはさらに10年後だ。
 子宮頸(けい)がんと診断され、米メリーランド州のジョンズ・ホプキンス病院の人種隔離病棟に入院したヘンリエッタのがん細胞が、ヒト細胞の培養をめざす研究室に運ばれたのが始まりだった。1951年初めのことだ。細胞はいとも簡単に増えた。正常細胞の性質も備え、研究には理想的だった。
 数カ月後、彼女が亡くなるころには細胞はあちこちで使われていた。国家プロジェクトとして大量培養され、ポリオウイルスを感染させてワクチンの安全性や効果を確認するのに役立った。ソ連や米国のロケットで宇宙にも行った。
 その量は今や5千万トン以上に達し、科学論文6万点以上を生んだ。今なお頻繁に使われ、大きなビジネスにもなっている。
 娘がいう。「母さんの細胞がそんなに医学に役立ったんなら、なんでその家族には医者にかかる余裕がないんだろう。みんなが母さんを利用して儲(もう)けても、あたしらには10セント硬貨1個だってこない」
 実は、家族がヒーラ細胞の存在を報道で知ったのは20年以上たってからだ。著者は、思いがけない「母」との出会いで動揺する家族にじっと寄り添う。幼いころに母を亡くしたきょうだいが「母」と対面するシーンが印象的だ。結びは「科学」を受け入れるに至った息子のこんな言葉だ。
 「利益を手にした連中がおふくろの功績を称(たた)えて、家族の気を晴らしてくれればいいんだ」
 細胞はだれのものか。答えはないまま、研究は進んでいく。
 今度薬を飲むときは、自らの細胞の運命を知ることなく31歳で世を去った女性に思いをはせてもいい。そう思わせる一冊だ。
    ◇
 中里京子訳、講談社・2940円/Rebecca Skloot 米国のサイエンスライター。ヘンリエッタの子孫のための奨学基金「ヘンリエッタ・ラックス財団」を創設。

関連記事

ページトップへ戻る