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逆事 [著]河野多恵子

[評者]松永美穂(早稲田大学教授・ドイツ文学)

[掲載]2011年07月17日

[ジャンル]文芸

表紙画像


■重層的な構成、書き過ぎない円熟

 名前をつけた途端に、動き出すものがある。この「逆事(さかごと)」もそうだ。物事のあるべき順序や秩序から逸脱した事柄を指すらしいが、読んでいるうちに、自分の周りにある「逆事」の数々に目を開かれてしまった気がする。
 本書に収められた5本の短編は、どれも比較的静かな光景を描いているようでいながら、遠景に目をこらすと、「死」や「賊」が見えてくる。「逆事」が、かさかさと音を立てながら追いかけてくる。そこに潮騒や往年の映画女優の面差しが重なったりして、重層的な構成の見事さに、ため息をつきながら読んだ。
 淡々とした語りには、偏屈な観察者の、ちょっぴり意地悪な視点も混じっているようだ。たとえば夫の出張中に泥棒に侵入されたことを、夫の帰宅後もなかなか言い出せずにいる妻の視点から語られた短編「緋(ひ)」。侵入されたことよりも、近所の人に助けを求めて来てもらった際に、片付け忘れていた夕食のテーブルを見られたことの方に、屈辱を感じている。夫に泥棒のことを打ち明けられなかったのも、彼を驚かせたくないというよりは、妻の側に封じ込めたい何かがあったからではないか。夫はそれを疑い、妻は否定するが、夫婦の間に芽生え始めた違和感が、読者も巻き込んでどんどん拡(ひろ)がり始める瞬間がある。書き過ぎない円熟、とでもいおうか。書かれていない部分に読者の想像をそそる、マグマの鉱脈が埋まっているのだ。
 人の生死と潮の満ち干きにこだわる表題作では、語り手が著名な作家の死亡時刻を引き合いに出しつつ、満潮時に亡くなった伯母の人生を振り返り、一人息子を戦死させた後の、伯母の悲願を回想する。しまいには幽霊まで登場する不気味な話なのだが、すべてがさらりと冷静に語られていく。順なることも逆なることも受けとめて胸に納める語り手の包容力も、海の潮のようではないだろうか。
 評・松永美穂(早稲田大学教授・ドイツ文学)
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 新潮社・1575円/こうの・たえこ 26年生まれ。作家。文化功労者。近作に『臍(へそ)の緒(お)は妙薬』など。



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