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「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか [著]開沼博

[評者]上丸洋一(本社編集委員)

[掲載]2011年07月17日

[ジャンル]社会

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■能動的に原発を「抱擁」した歴史

 福島は、どのようにして「原子力ムラ」となり「フクシマ」となったか。その主題を「中央と地方」「戦後成長」との関係から追究する。約400ページの本書は一部を除いて3・11以前に書かれた。福島県生まれの若い研究者の学術論文が、未曽有の大震災をへて注目を集めている。
 「(原発が)ないならないほうがいい」
 著者のインタビューに福島県の50代の女性が答える。それでも「出稼ぎ行って、家族ともはなれて危ないとこ行かされるのなんかよりよっぽどいいんじゃないか」と。
 原子力ムラは自ら能動的に原発を「抱擁」(受容)している。その「幸福感」に著者は着目し、ムラを受動的な存在とみる見方を退ける。
 本書を読みながら、私は水上勉のエッセー「『原発の若狭』のこと」(青林舎刊『原発切抜帖(きりぬきちょう)』所収)を思った。
 郷里・若狭になぜ原発が集中するのか、水上が元小学校長の知人に尋ねる。「二男三男・子女」を「都会奉公」に出してきた「貧困な農漁民」が「世間なみのくらし」を求めて一手に引き受けてしまった、と知人が答える。
 「原発がきて、やっとのことで、都市と同格になった気もする」
 それぞれ固有の事情もあるにせよ、フクシマと若狭は深いところでつながっている。フクシマを知ることは、若狭を知り、日本を知ることだ。フクシマは「他者」ではなく「私たち」であることを本書は改めて気づかせてくれる。
 幸福感——。水上勉は先のエッセーにこうつづる。
 「都市生活者の二男三男よ。長男の国、辺境の寒村は、放射能まみれになっても、きみたちが、健康で、優雅な文明生活を味わえて、せめて、二DKのマンションでくらせるように、人のいやがる原発を抱えてがんばっているのだ、という声を、私は若狭の地平からきく思いがする」
 評・上丸洋一(本社編集委員)
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 青土社・2310円/かいぬま・ひろし 84年福島県いわき市生まれ。東大大学院の博士課程に在籍。専攻は社会学。



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