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菜食主義者 [著]ハン・ガン

[評者]松永美穂(早稲田大学教授・ドイツ文学)

[掲載]2011年07月24日

[ジャンル]文芸

表紙画像


■肉を食べず、手の届かない世界へ

 何の予備知識もなく読み始め、一気に心を持っていかれてしまった。短編集だが、登場人物が共通しているので一つの長編としても読める。この出版社から出る「新しい韓国の文学」シリーズ第一弾だ。
 可もなく不可もない暮らしをしていた専業主婦が、ある日突然肉を食べなくなる。いまの世の中、ベジタリアンはそれほど珍しくないが、彼女の場合、なんらかの主張や、誰かの影響があってそうなったわけではない。自分が見た、気味の悪い夢を理由にするだけ。最初は肉を食べないというだけだったが、夫との関係もどんどんコミュニケーション不全に落ち込んでいく。
 もともとは食べることが好きだった妻が日曜日に作ってくれていた肉料理を、夫は回想する。そのおいしそうなこと! 楽しみを奪われ、欲求不満に陥った夫は、妻の実家に連絡する。家族の集まりが計画されるが、その際に決定的な悲劇が起こる……。
 肉を食べない女性を囲む、三人の身近な人物の視点から語られているが、それぞれの思惑と、女性への距離感がくっきりと表れていて、実に巧みである。手の届かない世界に閉じこもってしまったかに見える女性に、芸術家として激しく惹(ひ)かれていく義兄の話も興味深いが、困惑し、疲弊しつつ妹に寄り添おうとする姉の愛情にも心を打たれずにはいられない。
 「狂気」と片付けてしまっていいのだろうか。カフカが書いた、断食を至高の芸として追究する断食芸人の話を思い出した。女性は後半、全身全霊を傾けて一本の木になろうとする。性同一性障害という言葉を耳にしたことはあるが、「種」同一性障害というものもあり得るのだろうか? 人間であるとは、どういうことなのだろう? わたしたちが考える「普通」とか「当たり前」とかいうものに、この小説は鋭く切り込んでくる。豪雨のなかに放り出されたような、強烈な読後感が残る。
    ◇
 きむ ふな訳、クオン・2310円/Han Kang(韓江) 70年生まれ。本作で韓国の李箱文学賞受賞。



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