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埴谷雄高 鶴見俊輔著 「自分探し世代」と交信する大妄想人

[評者]野口武彦(文芸評論家)

[掲載]2005年04月03日

[ジャンル]人文

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 最近の日本では、政治家や思想家の変節を「転向」といわなくなった。
 鶴見俊輔は、かつて一九五九年、『共同研究 転向』上巻で、転向を「権力によって強制されたためにおこる思想の変化」と規定し、この用語を屈辱と罵倒(ばとう)から切り離して、思想史研究の金字塔をうちたてた。対象の一人に埴谷雄高を選んで論じたのが、本書冒頭に再録された「虚無主義の形成」である。
 キーワードは「薔薇(ばら)、屈辱、自同律」。権力の強制で信念を放棄させられ、密室に閉じこもった孤我の自問自答から、「非転向」よりもはるかに透徹した政治思想が生まれ出る逆説の劇を描いた。
 それから四十五年。ほぼ十年周期で天空に出現する彗星(すいせい)のように、鶴見の視界には埴谷の仕事が再接近し、その度ごとに輝きを増しているようだ。埴谷は不動の原点に立ち続け、鶴見は変転する時勢のうちに新しい視点を獲得する。相手はずっと無限遠点にたたずんでいるのに、十年おきにリニューアル的な発見が待っているといった具合である。
 たとえば二〇〇二年になって書いた「晩年の埴谷雄高」には、老年の埴谷におとずれた「もうろく」が古い出来事の意味を「一挙に照らしだす」という啓示的な指摘がある。日常生活では饒舌(じょうぜつ)家として知られながら決して語ろうとしなかった部分が、解禁されて表層に解き放たれるというのだ。
 とかく難解な観念小説として敬遠され気味だった『死霊(しれい)』を読みほぐし、読者との距離も縮められる。
 一九三三年に獄中で着想し、一九四五年に着手したが、その後ほとんど半世紀を経て、一九九五年に未完のまま中絶したこの大作は、すべて作中人物の妄想の交信録である。しかしただ昭和初期の挫折した革命青年の独語にとどまらず、平成の「自分探し」世代にも通じる観念と日常言語との格闘がある。
 だから「自同律の不快」をムカツキと理解する今の読者にとって、『死霊』の対話が携帯電話的であると喝破するところには、鶴見俊輔という思想家のバツグンの感度が発揮されている。
 [評者]野口武彦(文芸評論家)
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 講談社・357ページ・2520円/つるみ・しゅんすけ 22年生まれ。哲学者。『鶴見俊輔集』ほか著書多数。

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