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権力の病理 誰が行使し誰が苦しむのか 医療・人権・貧困 [著]ポール・ファーマー

[評者]渡辺靖(慶応大学教授・文化人類学)

[掲載]2012年06月17日

[ジャンル]医学・福祉 社会

表紙画像

■社会正義の蹂躙、医師の目で告発

 「21世紀のシュヴァイツァー」——しばしばそう喩(たと)えられる著者は、今日、世界でもっとも注目かつ尊敬される人類学者であり医師である。
 23歳のとき訪れた中南米ハイチの窮状に衝撃を受け慈善活動に参加、1987年にハーバード大学の同級生ジム・ヨン・キム(今年7月より世界銀行総裁に就任予定)らと著名な非営利組織「パートナーズ・イン・ヘルス(PIH)」を創設した。PIHは貧困地域では絶望視されていた結核やエイズなど感染症の治療で目覚ましい成果を遂げ、現在、世界12カ国に展開している。
 1年の半分を大学で過ごし、収入のほとんどをPIHに寄付、ハイチをはじめ世界の貧困地域で無償医療活動に取り組んできた著者。貧しい少年時代からの半生を描いた、ピュリツァー賞作家トレーシー・キダーによる評伝『国境を越えた医師』(邦訳、2004年)は全米ベストセラーとなり、ノーベル平和賞受賞への期待も年々高まっている。
 本書は中南米やロシア、米国などでの著者の医療経験をまとめた代表作の一つ。人種差別や階級格差といった〈構造的暴力〉から、その構造と相互依存関係にある〈権力〉、そしてその権力を支える身近な制度や規範まで幅広く射程に据えながら、人権や社会正義が蹂躙(じゅうりん)される現状を告発する。
 例えば、医療倫理。議論されるのは脳死や臓器移植など高度医療の是非ばかりで、構造の底辺を生きる人びとへの責務が問われることは少ない。そうしたなかで医療が「費用対効果」など市場原理主義的な概念に絡めとられてしまえば「医学の実践ですら人権侵害に加担しうる」と手厳しい。
 著者はまた、貧困地域への医療提供が不十分な理由として挙げられる「無数の強弁」を次々と論破してゆく。例えば、「患者が医師の指示を守らない」という指摘に対しては、「医師が患者に十分に食べるように指示しても、食べ物がなければ患者は『守らない』だろう」と一蹴する。
 「地域的慣習」や「中立」を重んじる姿勢が「傍観するための戦術」に成り下がり得ることを危惧する点は同じ人類学者として強く共感を覚える。
 本書には著者の盟友であるノーベル賞経済学者アマルティア・センが序文を寄せている。「進歩は、裕福な者がさらにどれだけ豊かになったかではなく、貧困をどれだけ縮小したかによって適切に判断できる」というセンの哲学を著者は共有し、実践している。
 日本の論壇などではなかなかお目にかかれない、スケールの大きな、真のリベラルの勇姿(ゆうし)を、私は著者のなかに見いだす。
    ◇
豊田英子訳、山本太郎解説、みすず書房・5040円/Paul Farmer 59年生まれ。ハーバード大学最高位の教授職ユニバーシティプロフェッサー。発展途上国での医療提供活動で世界的に知られる。現在はハイチ人の妻や子供たちとルワンダに拠点を置く。

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