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フロイト講義〈死の欲動〉を読む [著]小林敏明

[評者]柄谷行人(哲学者)

[掲載]2012年07月29日

[ジャンル]ノンフィクション・評伝

表紙画像

■分子生物学の研究成果で裏付け

 フロイトは63歳になって『快感原則の彼岸』(1920年)という論文を発表し、その中で「死の欲動」という概念を提起した。それまでの精神分析では生の(性的)欲動が主であったから、画期的な変更である。彼がこれを書いたのは、第1次大戦後に出てきた多くの戦争神経症者の治療体験にもとづいてであった。つまり、そこに見いだされる死の欲動や攻撃欲動は、歴史的・社会的な問題と切りはなすことができない。
 にもかかわらず、フロイトはそれをもっぱら生物学的な観点から見た。つまり、人間はすべての有機的生命体と同様に、無機物に帰ろうとする欲動をもつというのだ。それが問題であった。以来、フロイト派の多くは死の欲動という概念を拒否するか、それを受け入れる者も、ラカンがそうしたように、フロイトの生物学的説明を文字通りに受けとることを避け、それを自己流に解釈してきたのである。
 本書で著者は、フロイトが「死の欲動」という考えにいたった過程を、シェリング以来のドイツ哲学史の中にあとづけてはいるが、最終的に、フロイトの理論的可能性をそのような方向に見ることはしない。逆に、フロイトがとった生物学的な観点を文字通りに受けとめ、それを現在の分子生物学の研究成果である「死の遺伝子」という考えによって裏づけようとする。たとえば、多細胞の生命体は、不必要な細胞が自ら死ぬことによって、個体として存続できるようにプログラムされている。
 要するに、死はたんに生の否定なのではなく、もっと積極的な何かなのだ。この観点から見直せば、死の欲動、およびそれと攻撃欲動との連関を合理的に理解することができる、というのが著者の仮説である。さらに、著者は攻撃欲動を超える鍵を、あらためてフロイトの「昇華」という概念に見いだそうとする。注目すべき論考である。
   ◇
 せりか書房・2625円/こばやし・としあき 48年生まれ。独・ライプチヒ大学東アジア研究所教授。

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