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「四つの小さなパン切れ」書評 対岸の傷ではない痛みの記憶

評者: 赤坂真理 / 朝⽇新聞掲載:2013年07月21日
四つの小さなパン切れ 著者:マグダ・オランデール=ラフォン 出版社:みすず書房 ジャンル:小説・文学

ISBN: 9784622077510
発売⽇: 2013/05/10
サイズ: 20cm/182p

四つの小さなパン切れ [著]マグダ・オランデール=ラフォン

 年齢を問われ16歳を18歳と言ったマグダは「ならば右!」。母親と妹は「ならば左!」で、左には死が、右には強制収容所があった——。
 家族で唯一、ハンガリーのユダヤ人でも数少ないホロコーストの生き残りとなった彼女が、記憶をフランス語で紡いだとき、身近な人さえ驚いた。
 実の子にも言わないことを、いる確証もない誰かに向かって静かに語り出すこと。この態度が、彼女の詩であり散文であるような文章に、特異な風と光を与えている。それはかつて彼女が受けた光への返礼なのではないか。「いのちは奪われてしまったけれど、最後までわたしたちに生きる勇気を与えようとしてくれた人々」の思い出を生かすため、彼女は痛みをこらえて記憶の橋を渡る。「わたしたちはけっして癒えることはない。わたしたちはいつも癒(いや)しの途上にいる」
 あまりの悲惨さ、悲惨であればあるほど輝きを増す光。
 私はしかし、ここでふと考えこむ。ヨーロッパ現代文学に「ナチス」「ユダヤ人」「ホロコースト」がなければ、どれだけ層が薄くなるのかと。かの世界的ベストセラー、シュリンクの『朗読者』だって、ナチスの戦犯がらみでなければああも感動的ではなかった。
 マグダは言う。「ハンガリーの傷はあまりに痛ましくて、わたしはその記憶を閉じこめてしまった」。そのハンガリーを日本に換えても同じではないだろうか? 原爆や大空襲はホロコーストと言わないだろうか? なぜ私たちは、あたかも年月が蒸留する光のような語りを手に入れられないのだろう?
 ここに私たちが置かれたむずかしさが照らし出される。ドイツのようにナチス(党)とドイツを切り離せず、明確な悪者がいない、という。
 8月を迎える。対岸の傷や光としてではなく、読んでみてほしい。
    ◇
 高橋啓訳、みすず書房・2940円/Magda Hollander−Lafon 27年生まれ。児童心理学者。