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重力との対話—記憶の海辺から山海塾の舞踏へ [著]天児牛大

[評者]宮沢章夫(劇作家・演出家)

[掲載]2015年05月03日

[ジャンル]人文

表紙画像

■自らと向かい合い言語化された身体

 私はけっして、舞踏カンパニー山海塾のいい観客とは言えないが、舞踏、あるいはダンスと、そして私が主に関わっている演劇と、領域のちがいはあっても、身体表現をする者として、天児牛大が本書に記す言葉、繊細に整えられた砂粒の表面に自身の舞踏へのアプローチを、丁寧な指の動きで、砂を散らさないほどゆるやかに、ゆっくり、けれどしっかりした文字となって記された言葉として本書を読んだ。
 だからこそ勇気を与えられる。創作意欲を掻(か)き立てられる。
 かつて、ある演劇のワークショップを見学したことがあった。外国人の演出家が、参加している俳優たちに、「あなたは水に浮かぶ木の葉です」と。申し訳ないが笑った。そんなはずは絶対にないからだ。あるわけがないじゃないか。なぜなら、そこにいるのは人間だからだ。「木の葉」をイメージし、からだを解放するという意味だろうが、どうも釈然としない。そうした種類の「ワークショップ」は一般的らしいとあとで知ったが、それと比較したとき、天児牛大の思考の深さ、身体へのアプローチの長い時間と蓄積に感服する。たしかに天児牛大もまた、「仮想」という言葉でイメージする行為を似たように語るが、「木の葉」のイメージとはあきらかにちがう。視線によって遥(はる)か遠くまで、「長い線」を「仮想」し、そのための内面の訓練について次のように記す。
 「仮想の設定は意識による所有であり、実際物を所有しないことで他の所有への移行、変化を可能にする。所有しない所有である。これはそこに不在であるからこそ世界にかかわり、世界を現前させるものとしてコスモロジカルなものである」
 たしかに、「あなたは水に浮かぶ木の葉です」と同様、これもまた、わけのわからなさ、難解さを持つものの、言語化の過程が圧倒的に異なっている。山海塾と天児牛大が長時間にわたって自らの身体と向かい合い、やがて出現しただろう、言語化された意志する身体があるからだ。「ある種のワークショップ」が生み出す身体とはまったく異なる。つまり、表現する、しないに関わらず、人の身体の成り立ちは、工業製品のような自動的生産(=規格化されたワークショップの方法)ではないからだ。
 これは自明である。
 世阿弥の「風姿花伝」がそうであるように、すぐれた身体表現についての言説は、専門的な枠内で閉じたまま語られるのではなく、表現の枠を越え、ある思想の体系として読むことができるように思えてならない。天児牛大の本書もまた、そのような言葉として外部に開かれている。
    ◇
 岩波書店・2160円/あまがつ・うしお 49年生まれ。山海塾主宰・振付家・演出家。80年から海外でも公演し、おもにフランスと日本で創作活動。82年以降、パリ市立劇場との共同プロデュースによる創作活動やオペラも演出している。

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