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地平線 [著]パトリック・モディアノ

[評者]大竹昭子(作家)

[掲載]2015年05月03日

[ジャンル]社会

表紙画像

■何者でもなかった頃の懐かしさ

 こんなことを言うとミステリー好きに怒られそうだが、ミステリーは事件が解決にむかうと退屈になる。謎こそが魅力なのだから、解かないで欲しいと思う。昨年ノーベル文学賞を受賞したフランスの作家、パトリック・モディアノの小説はその心配は無用。次々と提示される謎は最後まで解かれず、本を閉じたときにはあたりに霧が立ちこめている。自分はいったい何を読んだのかと、玉手箱を開けた浦島太郎のような疑問符が灯(とも)る。あんなに興奮して読んだのにその訳が言えない。
 ボスマンスは60年代のパリでマルガレットと知り合うが、彼女は突然に失踪、40年後、記憶の破片を集めながら彼女を探し求める。男女の偶然の出会い、見え隠れする互いの過去、親子関係の希薄さ、いかがわしい人間につきまとわれる恐怖……。これらモディアノにおなじみのモチーフが過去と現在を行き来しながらつづれ織りのように編まれるスタイルは、ナチス占領下のパリを生きのびたユダヤ人の父の体験や、自分の不安な子供時代と無関係ではないことを、作家自身が語っているし、研究の対象にもなっているようだ。だが、そのような自伝的事実を知らずとも深く引き込まれてしまうのはなぜか。同じテーマが繰り返されてもまただとは思わないのはどうしてか。
 夕方7時ころ、オペラ大通りを歩いているボスマンスのなかに、ある名前が甦(よみがえ)ることから話は始まる。記憶の糸は、街の中で建物を見上げるとき、カフェの隣の人にふと目をやるときにほどかれる。目的のない歩行が「人生にどんな確かな基盤も持っていなかった」頃に立ち返らせるのだ。そう、モディアノを読むとき襲ってくるのはこの感覚、自分が何者でもなかった心もとない状態への親しみなのである。不安と隣り合わせの感情に懐かしさがある。きっと何者でもないことが人間の本来の姿だからだろう。
    ◇
 小谷奈津子訳、水声社・2160円/Patrick Modiano 45年生まれ。『暗いブティック通り』など。

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