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日本語のために―日本文学全集30 [編]池澤夏樹

[評者]蜂飼耳(詩人・作家)

[掲載]2016年10月02日

[ジャンル]文芸 人文 社会

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■祝詞から憲法までの言葉の姿

 思考と文体は相互に影響し合う。リテラシー(読み書き能力)は時代とともに変化する。日本語はどのように変遷してきたのか。本書は、古代から現代までのさまざまな「文体のサンプル」と考察から成るアンソロジーだ。目次を見るだけでも面白い。祝詞(のりと)、漢詩文、仏典、キリスト教典、琉球語やアイヌ語の作品、いろはうたや五十音図、音韻と表記の考察、シェークスピアの訳、大日本帝国憲法や日本国憲法など、政治をめぐる言葉の例もある。
 たとえば祝詞は「六月(みなづき)の晦(みそか)の大祓(おおはらい)」が取り上げられている。編者による現代語訳の前に原文の書き下し文が置かれる。原文の感じも味わえるようにという工夫だ。その直後、大野晋の編著による『古典基礎語辞典』が紹介されている。「なる【成る・生る】」「こと【言・事】」「もの【物・者】」など、気になる項目の抜粋が並ぶ。
 漢詩文の章では、菅原道真、一休宗純、良寛の他に、英語英文学と漢詩文との間で葛藤した夏目漱石の漢詩が収録されている。幕末明治期のベストセラーである頼山陽『日本外史』も「壇浦の戦」の箇所など、ごく一部分だが収められている。武家の興亡を描くこの書物が、訓読体の音声の調子を伝える例ともなっている。
 聖書の「マタイによる福音書」第二六章が、文語訳、口語訳、新共同訳など五種の訳で示され、さらに「ケセン語訳」が置かれる。岩手県・気仙沼あたりの方言。シェークスピアの「ハムレット」は、六人の訳が並ぶが、そこには差異と驚きがある。時代とともに移り変わる言葉の姿を眺めようとする本書の方針が見て取れる。
 八八八六の音韻による琉歌や、樺太アイヌの記録なども収録。広い視野から眺め渡された日本語の多様な状態だ。小松英雄のいろはうたの考察、松岡正剛による「馬渕和夫『五十音図の話』について」、高島俊男「新村出(しんむらいずる)の痛憤」など、音韻と表記をめぐる論考も、日本語の現状と今後を考える上で興味深い例だ。永川玲二「意味とひびき——日本語の表現力について」や中井久夫「私の日本語雑記」なども、それぞれ簡明な筆致でわかりやすく、示唆に富む。
 漢文訓読体の大日本帝国憲法の後に、高橋源一郎訳「終戦の詔書」が置かれる。言葉の意味とニュアンスの前で、考えさせられる。ふだん、言葉を読むとき、私たちは言葉のどこを見ているのだろうか。近代国家体制が作り出した「国語」は便利。だが切り捨ててきたものも少なくない。本書は、そんなことを考えることが可能な現在ではないか、と力強く問い掛ける、前代未聞のアンソロジーだ。
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 日本文学全集は池澤夏樹氏の個人編集で、古典から現代まで全30巻の予定で刊行中。既刊本では、「宇治拾遺物語」「百人一首」などを現代作家による新訳で収録。

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