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セカンドハンドの時代―「赤い国」を生きた人びと [著]スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ

[評者]柄谷行人(哲学者)

[掲載]2016年12月18日

[ジャンル]社会 国際

表紙画像

■苦悩の言葉が文学になる瞬間

 東日本大震災が起きてまもなく、私は米ロサンゼルスに講演に行ったが、その帰途に乗ったタクシーの運転手から、「日本は大変だったね」と話しかけられた。ここでもあんな災害が起こりそうだし、もし起こったら、郷里に帰るつもりだ、という。どこから来たのか、と問うと、「ソ連」だという。随分前にアメリカに来たのかと思ったが、1990年代だという。なぜ今も「ソ連」というのか、と不審に思いつつ、黙っていた。彼は話し始めると止まらないタイプで、ソ連というよりも、ドストエフスキーの小説に出てくる人物のようだった。
 本書を開くと、そのようなロシア人がうようよ出てくるような感じがした。たとえば、自分はソ連人であるという人たちが多い。のみならず、実際にアメリカに行って戻ってきた人物も登場する。ただ、ソ連時代がよかったという人も皆、ひどい目にあってきた。だから、ペレストロイカ(改革)に期待し、エリツィンにもプーチンにも期待した。しかし、望ましい社会は何一つ実現されなかった。できあがったのは、「カネがあるやつは人間、カネがないやつはカス」という社会だ。そして、「やくざ者が国会にすわっている」だけだ。それなら、ソ連のほうがましだった、自分は、実は共産主義者だ、というわけである。
 この作品は、ソ連崩壊後に生きる、多くの人々の話を録音して、編集したものである。その意味で、文字通り「多声的」である。しかし、それはたんに、多数の人の声が聞こえるという意味ではない。そもそも、一人ひとりの発話が多声的なのだ。ソ連時代を恨むと同時にそれをいとおしみ、誇りにもする。だが、何も新しいものはない。何もかもがセカンドハンド(中古)だ。それが彼らの苦悩である。
 これはルポルタージュのように見えるが、そうではない。ルポルタージュは、多くの場合、整備された虚構である。著者はそんなことをしない。本書では各所に「沈黙」や「間」というサインがあり、それが録音を忠実に筆記したことを示している。そのことにいつわりはあるまい。しかし、まったく作意がないのではない。著者は話を録音するとき、人の言葉が「文学」になる瞬間を意識している。「ただの日常生活が文学に移行するその瞬間を見逃さない」ように。「文学のかけら」は「いたるところ」「思いもよらない場所」に見いだされる。たとえば、ある人物がいう。「わたしたちは、いつもいつも苦悩のことを話している……。これはわたしたちがものごとを理解する手段なんです」。その意味で、この本は「文学」なのだ。
    ◇
 Светлана Алексиевич 48年ウクライナ生まれ。ベラルーシの作家、ジャーナリスト。2015年ノーベル文学賞受賞。著書に『戦争は女の顔をしていない』『チェルノブイリの祈り』など。

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