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夜の谷を行く [著]桐野夏生

[評者]原武史(放送大学教授・政治思想史)

[掲載]2017年05月14日

[ジャンル]文芸

表紙画像

■連合赤軍、女性たちの理想は…

 小学3年だった1971年7月、栃木県那須で食べた森永のバニラアイスの味を、私はいまも記憶している。その記憶は、本人にとっては絶対的であり、他者は反駁(はんばく)できない。「あなたの記憶は間違っている」とは言えないのである。
 本書は、かつて連合赤軍に属していた架空の女性、西田啓子を主人公とする小説である。啓子もまた、1972年2月、群馬県の活動拠点(山岳ベース)から市街地に食糧を買いに行ったときに食べた森永のバニラアイスの味を鮮明に記憶している。この味覚の確かさから、私は半世紀近く前を反芻(はんすう)し、啓子に感情移入できた半面、決定的な違いにも気づかされた。啓子は妊娠していたがゆえにアイスを欲していたのだ。
 桐野夏生は、判決文を含めてこれまで男性の視点から語られてきた連合赤軍事件を、女性の視点でとらえ直そうとする。妊娠しながら山岳ベースにいた女性は啓子だけではなかった。そこには、女性たちが子供を産み、未来につなげるために闘うという、暴力革命とは一線を画する理想があったのである。
 しかしリーダーの永田洋子は、男性たちに同調してゆく。啓子は同調せず、山岳ベースから君塚佐紀子とともに脱走した。少なくとも啓子はそう考えていた。だが39年ぶりに再会した佐紀子の記憶は、啓子とは違っていた。佐紀子から見れば、啓子は永田に近いところにいた。看護学校の生徒として加わった金村邦子からも、「その場で求められている正答しか言わない」かつての態度を批判され、面会を拒絶される。
 森永のバニラアイスの記憶とは異なり、山岳ベースでともに過ごした記憶は、たとえ同じ理想を共有した女性どうしであっても反駁され得る。そこから浮かび上がる深い孤独は、最後に思わぬ形で克服され、救済が訪れる。まるで聖母子像を見ているかのような結末の崇高さに、著者の新境地を見たような気がした。
    ◇
 きりの・なつお 51年生まれ。『OUT』で日本推理作家協会賞、『柔らかな頬』で直木賞、『東京島』で谷崎賞。

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