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百年の散歩 [著]多和田葉子

[評者]椹木野衣 (美術評論家)

[掲載]2017年06月04日

[ジャンル]人文

表紙画像

■通りの名に誘われてぐるぐる

 扉を開けて題字を通り過ぎ目次までたどり着くと、十ほどの名前が日本語とドイツ語で並んでいる。いずれもこれから始まる「百年の散歩」の通過地点となるベルリンの通りで、哲学者から革命家、画家や彫刻家、詩人などの歴史的な人物にちなんで名付けられたものばかりだ。
 だが、街を散策していれば世界中どこでも出くわす偉人たちの銅像のようには、通りは本人を模倣してくれない。まっすぐだったり、曲がっていたり、枝分かれしていたりして、むしろ人間離れしている。目次をめくるとあらわれる地図がそうであるように。
 それでもひとたび名がつけば、通りはそれらしくかれらにたたずまいを寄せる。ときにはその名の分泌する蜜に惹(ひ)かれた人を虫のように引き寄せ、その通りならではの巣にもよく似た店が顔を出し、不意に誰かが足を踏み入れるのを罠(わな)さながらに待っている。
 通りの一角で「あの人」を待ち続けている「わたし」もそのひとりだ。だが、約束はいつも果たされることはなく、結局「その人」はあらわれない。待つだけの「わたし」は、いつのまにか通りの名を手綱にしている。
 行ったこともない遠い土地に想(おも)いを馳(は)せたり、まだ幼かったころの記憶をよみがえらせたり、果ては死んだ子供の幽霊に出会ったりして、考えなくてもいいはずのことを延々と考え続ける。そして不安な旅に出る前夜の鞄(かばん)のように、ぎゅうぎゅうになるまで頭の中に言葉を詰め込み、想念で破裂しそうになる。結局、街に憑(つ)かれているからだ。
 だが、詩人に由来する最後のマヤコフスキーリングは通り(シュトラッセ)ではない。輪(リング)だ。同じ道でも、輪は通りのように左右の端がないことで、位相幾何学(トポロジー)的に内と外をひっくり返せる。ならば、始まりと終わりのある百年の散歩もここで終わりだ。そのとき、ベルリンという街と「あの人」の代わりに姿をあらわすものとは。
    ◇
 たわだ・ようこ 60年生まれ。小説家、詩人。ベルリン在住。日独両言語で執筆。著書に『献灯使』など。

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